SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 66

2013年07月28日 | 日記

    

 66

「生きた、焼き尽くされるべきいけにえとして自我が祭壇に置かれない限り、神は最上のささげ物もお受け入れにならない。根は清浄でなければならない。さもなければ、健全な実を結ぶことはできない。健全な実だけが、神に受け入れられるのである。心は回心し、清められなければならない。動機は正しいものでなければならない〔ここでは外庭の経験が描かれている〕。心のともしびは、天の使者〔旧新約聖書〕から流れ出る油で給油されねばならない。その油は、金の管を伝って金の器に注がれる」(教会への証7巻248-249ページ)。

 上の引用文は、ゼカリヤ書4章の場面に言及しており、そこには、金の燭台の両側に生えている二本のオリーブの木が登場する。これらの木は、絶えず油を供給するためのもので、燭台につながっている。読者諸君は、聖霊の満ちあふれるほどの供給を日々経験しているだろうか?絶えずみことばを研究し、そこに書かれてあることを実践するときにのみ、私たちは聖霊を受けることができるのである。


 原稿:職場新聞への投稿より   来るべき日に備えて  ①

   聖書との出会い

 今からおよそ2000年の昔、当時強大な軍事力によって地中海世界を支配していたローマ帝国の片隅で、一人の思想家が次のように書いた。「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠がわたしを待っているばかりである」。

 彼の名は使徒パウロ。彼は武力によるローマ帝国の絶対支配に対し、愛による精神の自由を唱えたことにより、権力に反逆するものとして投獄され、やがて斬首の運命にあうのであった。薄暗く汚い独房の中で、近づきつつある死の足音を聞きながら、しかし、彼の心は限りなく明るい未来に向かって開かれていた。

 私がこの言葉に出会ったのは、今から40年以上前、受験浪人として京都の予備校に通っていた時であった。その頃は学生紛争が最も激しい時代で、自分が翌年受験するべき大学の学生たちが、勉強そっちのけで機動隊との衝突を繰り返しており、多くの大学が長期の休校を余儀なくされていた。その中で私は、自分が何をしたらいいのか進むべき道が見つからないあせり、生きる意味の不確かさ、湧き上がる欲望、死への漠然とした不安などを抱えながら予備校通いをしていた。そんな時、ふとしたきっかけから、教会へ行くようになり、この言葉と出会い、このように力強く堂々と生きそして死んでいった人の生き方を知りたいと思うようになっていった。