52
しばらく隠れていたら、門をドンドンとたたく音が聞こえてきた。藪の隙間からのぞいてみると、門の外には、私にけがを負わされた女性が立っていた。彼女の周りには、さっきまで私といっしょに遊んでいた近所の男の子たちがいた。彼らは私の母に向かって、「デイビッドが、このおばさんにけがをさせたんだよ!やったのはデイビッドだよ!」と、口々に叫んでいた。私の母は救急箱を持ち出してきて、その女性に傷薬をぬっていた。私はやぶの後ろに隠れたまま、その様子を見ていた。あのときの惨めな気持ちは、大人になった今でも忘れることができない。父親から罰せられることを考えると、いっそう恐怖心が募った。母は、けがをした女性を病院へ連れて行き、しばらくたってから家に戻ってきた。後になって聞いたのだが、けがをした女性は額を五針も縫い、母が治療費といくらかの賠償金を払ったそうである。母は、病院から戻っても、私を捜さなかった。そして、何事もなかったかのように、洗濯やその他の家事をこなしていた。私はますます不安になった。
さらに時間が経過し、太陽は西の山に沈みかけていた。突然母が、私の隠れていた藪のそばまでやってきて、穏やかな声で、「デイビッド、おいで、夕飯の時間だよ」と語りかけた。彼女はずっと、私がそこに隠れていたことを知っていたのである。恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたいと思った。私はうなだれながら、黙って母について家の中に入った。食卓には、いつもとは違ってご馳走が並んでいた。食べ始めてすぐに、父が帰宅した。再び、私の心に緊張が走った。夕飯の席についてから、父が、「今日は、何も変わったことはなかったかね?」と尋ねた。
説教集 : 受ける愛、与える愛 4 「よかった」探し
高崎さんの詩の中に、彼女が神様を知ったとき、まわりに数多くの恵みが満ちていることに気がついた、という言葉があります。これが「愛される」ということを考えるときに、忘れてはならないもう一つのことです。時々私たちは、自分など、いてもいなくても同じだという無価値観にとらわれることがあります。また、どうせ自分など誰もわかってくれる人などいないんだ、という孤独感に襲われる人もいます。あるいは親の愛情を十分受けてこなかった、親から疎まれて育ってきたという被害者意識を持ち続けている人もいます。
しかし実のところ、私たちがよく目を開き、心を開いてまわりを見るなら、そこにはたくさんの恵みが満ちているのです。あるアメリカの宗教教育家は、「神は天にも地にも、数えきれぬほどの愛のしるしをまき散らして、私どもの心をご自分に結びつけたまいました」、と言っています。私たちが見ようとするなら、私たちのまわりのあたりまえと思っていることの中にも、愛の証拠は数多くあるのです。
高橋さんは、自分を世界一不幸な人間と考え、そこに閉じこもることもできたでしょう。しかし彼女は、自分の不幸にではなく、自分のまわりにある愛、感謝に目を注ぎ、それによって明るく生きるようになりました。そして自分の失ったものや、できないことを嘆くのでなく、いまあるもの、できることを喜ぶようにしているのです。これが私たちの人生を力強く生きる秘訣です。
以前テレビで、「愛少女ポリアンナ」というアニメが放映されました。この物語の主人公は、小さいときに親をなくし、いじ悪な叔母さんに育てられるのですが、どんな時にも、何か「よかった」と言えることを探していきます。苦しめられ、いじめられても、見方を変えると、どこかに「よかった」と言える事がある、それを探していくことによって、次第に周囲を明るくしていく、そんなストーリーでした。これはもちろん小説ですが、私たちにとっても大切な考え方だと思います。
讃美歌にも、「数えてみよ、主の恵み」という歌がありますが、私たちが愛されていないと不平を言う前に、これまでの人生で楽しかったこと、喜びで心が一杯になったことを考えてみると、いつの間にか暗い思いは消えていくのです。