SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 53

2013年07月15日 | 日記

    

    53

 神のいとし子、イエス・キリストの十字架を見るときに、私たちは神との新しい契約関係に入っていく。なぜなら、自分たちの救いのためにどれほど大きな愛が示されたかを、理解するようになるからである。聖霊が、私たちの心と思いに神の律法を刻み込むと、私たちは、律法の要求に調和して生きることができるようになる。それは、裁きを恐れるからでも、天国に行きたいからでもなく、ただキリストの愛に感動して、二度と彼を悲しませたくないと思うようになるためである。そのとき私たちは、神から新しい心をいただいたのである。

罪祭の儀式を通して、カルバリーの十字架を見るのである。十字架のもとにひれ伏して、新しい契約の経験に入るのである。神が罪祭の儀式をお定めになったのは、私たちにこの経験を与えるためであった。ただし、次のことをわきまえねばならない。もし日ごとに神の愛を経験することも、思い出すこともなかったら、かつての同じ罪につまずくことだろう。誘惑が勢力をとり戻し、罪への欲求がよみがえることだろう。神の愛には力があり、その愛が勝利する力を与えてくれるのである。私たちは、その力を日ごとにいただかなくてはならない。神の愛は、一度だけ降り注いでそれで終わりというものではなく、毎日注がれている。救いとは、日ごとに主と歩む経験のことである。それは、一度だけ与えられて、私たちを永久にオート・クリスチャンとしてくれるものではない。救いは神からの賜物であるが、それには毎日の勝利の経験が伴うのである。

愛の流れ

  さて、愛には「愛される」ということだけではなくて、「愛する」という面があります。聖書には、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)とありますが、本当の愛は、愛されることよりもむしろ愛するという経験の中にあると言っても過言ではないでしょう。

ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、「愛することは愛されることより美しく、また人を幸福へと導くものである」と言いました。

 また、森田療法理論をもとに、家庭や職場での悩みに答える「生活の発見会」理事長斉藤光人氏は、「人間愛されることも幸せですが、それよりも愛するものを持つほうが、はるかに幸せです。それは、他人の不安定な愛を待つより、自分が愛するほうが、より確実で安定的だからで」(『ストレス時代の心の健康法』)と言っておられます。

 私たちが健康で明るい生き方を願うなら、この確実で、安定的な愛を持つ必要があります。

 では、愛するとは具体的にどうすることでしょうか。聖書は愛について、次のように教えています。

 愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(コリント人への第1の手紙13章4~8節)

 私たちの心と行動がこのようになること、これが愛だと言うのです。聖書が教える愛は、無我で自己犠牲の極致であり、このような愛こそすべてのすべてなのです。

 しかし聖書の言葉の一つ一つの意味を考えていくと、自分たちが、この愛からほど遠い者であることを感じさせられます。私たちは、少しも寛容でなく、人をなかなか許しません。親切心の足りない者、ねたみやすく、高ぶり、誇り、不作法で、自分の利益のために一生懸命で、すぐイライラし、人を恨んでしまい、短気で忍耐心のない者です。

私自身、聖書を知るようになり、聖書の教える愛の素晴らしさに心を打たれ、自分も実践してみようと、何度も努力してきました。しかし、今日こそは寛容になろうと思っても、何かちょっとしたことで気持ちが変わってしまうのです。少しはできるようになったかと思うと、次の瞬間には腹を立て、イラ立ってしまいます。

 そんなことがくり返されていたある時、人間の中にはこの愛はないのだということを教えられました。聖書の教える愛は神様に属するものであり、神様だけが持っておられるものです。それは神様から与えられない限り、人間の誰も持つことが出来ない崇高で神聖なものだということが分かってきました。

 この愛を、もし私たちが得たいと思うなら、私たちは、神様の前にひざまずかなければなりません。自分の中に無我で無償の愛がないことを認め、それを与えて下さるよう求めるのです。このような求める心を「祈り」と言います。

 私たちは、人間的な方法ではもはや愛せなくなったと感じるその時こそ、神様に愛を求めることができます。そうする時に神様は私たちの中に、新しい愛を作り出していってくださるのです。

 先ほど紹介した宗教教育家は、愛を求める祈りとして次のような言葉を書いています。

「わたしは弱いのです。そして少しもキリストに似ていません。このようなわたしですが、どうぞお救い下さい。主よ、わたしの心をお受けください。わたしはこれをささげることはできません。これはあなたのものです。どうぞきよく保って下さい。これを、わたしが保っていることは出来ません。どうぞ、わたしを練り、形造り、清い聖なる雰囲気の中に引き上げて、あなたの豊かな愛の流れが、わたしを通って流れ出るようにして下さい」。(『豊かな人生の秘訣』)

 私たちが朝起きたとき、また一日のうちで、たえずこのように祈るとき、私たちの心は神様からの愛で満たされていくのです。