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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 60

2013年07月22日 | 日記

 

  60

これをするためには、自分の意志を絶えず神に降服させねばならないが、これには執拗な努力が求められる。私たちは、自分の努力によって救われることはないが、自己に死に、己の意志を明け渡すという行いがなければ、だれも救いの経験を保持することはできない。救いの経験は外庭で終わるのではなく、聖所を通り、至聖所へと至るものでなければならない。救いは十字架で完成されなかったが、贖いの恵みは十字架で提供された。つまり、救いのお膳立ては十字架でなされたのである。聖書には、「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」と書かれている(ヨハネ3:16)。救いは神からの無償の賜物であるが、この賜物を受けるには、信仰が伴わなくてはならない。神を信じるとは彼を愛することであり、神を愛する者たちは彼の戒めを守るであろう(ヨハネ14:15,21参照)。聖所の儀式は、神がどのように民を裁かれるかを説明しているものに過ぎない、と言う人たちがいる。しかしながら、神が罪を断ち切り、ご自分の民を印されるときにも、地上に住んでいる者たちの協力と献身がなければ何もおできにならないことを、私たちは理解しなくてはならない。

   説教集:永遠の愛 ①

   いつまでも生きていたい 

 こんな話を聞いたことがあります。ある所に、一人のお婆ちゃんがおられました。この方は頭はしっかりしているのですけれども、体が動かなくなって、ほとんど寝たきり状態でした。家族の者に厄介をかけているという思いからでしょうか、口癖のように「早く死にたい。早く死にたい」と言っていました。

この家に、茶目っ気のある高校生のお孫さんがいました。ある時おばあちゃんがいつものように「死にたい、死んでしまいたい」と言うものですから、「お婆ちゃん、そんなに死にたいの」と聞きました。お婆ちゃんは「ああ、もう生きていなくていい。早くお迎えが来てほしい」と答えたのです。するとお孫さんは、「お婆ちゃん、お婆ちゃんがそんなに死にたいのなら、この薬を飲んだら楽に死ねるそうよ。お婆ちゃんのために、私、学校からこっそり持ってきたんだけど、飲む?」、そういって小さな包みを取り出しました。言われたお婆ちゃん、「今日は疲れたから、また明日にする」と顔をそむけてしまったそうです。

このお婆ちゃんは、「死にたい、死にたい」と口では言っていても、本当は死にたくない、どんなに苦しくても、やっぱり生きていたいと思っていたのです。そして、人間だれしも、同じようにいつまでも生きていたいと願っているのではないでしょうか。

しかし、どんなに私たちが生きていたいと願っても、死は必ずやってきます。私たちすべての者は、あの四角い六枚の板の中に入って終わりなのです。昔の人は、「世界の勝利者はウジ虫だ」と言いました。人間は誰しも、どんなに知恵があっても、体力があっても、金持ちでも権力者でも、みんな死んで、最後はウジ虫に食われてしまう、だから、ウジ虫が世界の最終勝利者なのだというわけです。

私が、生まれて初めて火葬場に行った時のことを思いだします。21歳の時、牧師の実習で、九州の教会に行った時のことでした。教会員の方が亡くなられ、お葬式が行われました。その式の後、私は遺族の方々と一緒に、火葬場に行きました。

お棺が焼却炉の中へ納められて数時間後、係の人の連絡で、遺族の者が焼却炉の前に並びました。扉が開けられ、トロッコが引き出されてくると、ムーッとする熱気、魚の焦げたような臭いが立ち込めます。トロッコの上を見ると、そこにはカサカサに乾いたカンナクズのようなものがパラパラと散らばっているだけでした。それを見た時は、ほんとうにショックでした。ほんの終日前までは、生きて、泣いたり、笑ったりしていた人が、今はもう、何の意味も持たない小さなカケラに変わり果てているのですから。人間はみなこうなってしまうのか。そう思うと、何とも言えないむなしさがこみあげてきました。自分の愛する者も、そして自分自身さえも、いつかはこうなってしまうのだとすれば、生きることにどんな意味があるのだろう、つくづくそう思いました。

死というのは、いっさいを無にする、巨大なブラックホールのようなものです。そこへ行けば、すべてが何の意味も持たなくなる世界です。しかも、死の前では、どんな人も全く無力です。どんなに死に逆らおうとしえも、人はたちどころに、死に打ち負かされてしまいます。