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IV.聖所:聖化の経験
罪人が外庭において、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)を凝視し、回心して清められた後は、(信仰によって)第一の部屋である聖所に入る。ここで彼は、良心をどのように清く保つかを学ぶ。それゆえ、聖所は聖化の過程を象徴している。これは、救いに不可欠である。救いというのは、一度受けたら永久にそのまま維持されるものではない。救いは神の恵みであり、私たちへの賜物であるが、それが与えられるときには、心の中で特別な変化〔変質〕が起こる。そしてそれは、何らかの方法で維持されねばならない。「一度救われれば、常に救われている」などというものはないのである。
私たちは、神の力と恵みにより、毎日この経験を保持しなければならない。ゆえにキリストにあって生まれ変わり、日ごとに贖いの経験をしなくてはいけないのである。この真理は、ヨハネによる福音書15章のブドウの木の譬えに見出される。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)。
説教集:どうしても愛せない時 ⑥ 赦す心はどこから
もうひとつ、赦す理由があります。これは旧約聖書の物語ですが、ヤコブという人に12人の息子がいました。そのうちの下から2番目のヨセフという子をお父さんは溺愛しました。それを妬んだ兄さんたちは、ヨセフをエジプトへ奴隷として売りとばしてしまいます。
エジプトへ行ったヨセフは、神様を恐れつつ真面目に働き、不思議な導きによって総理大臣にまでなります。ヨセフがエジプトへ来てから20年後、ヨセフの兄弟たちは、飢饉のため食料を買いにきて、エジプトの大臣となったヨセフと再会します。自分たちが殺したと思っていた弟と会ったのですから、驚いてしまいました。そして、きっと昔のしかえしをされるに違いないと恐れるのです。しかし、兄たちの心配をよそに、ヨセフはこう言いました。
「わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うためにあなたがたより先にわたしをつかわされたのです。……神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」(創世記45章5~8節)
ヨセフは、自分の人生の背後に神様がおられることを知っていました。自分の受けた幸も不幸も、すべて神様の不思議な導きの中にあることを学んでいたのです。彼は、人間の計略や知恵のいっさいを超えて、神様が人間の運命を支配しておられることを感じていました。それゆえに、兄たちが自分を奴隷としてエジプトへ売ったことも、そのために、さんざん苦労したことも、自分にとって意味のあること、その中から人生の大切なことを学ぶ場だったのだということを実感し、兄たちを赦したのです。
全く理不尽な、不可思議なできごとの中にも、神様がおられ、神様が導いて何かを教えようとしておられる、そう思える時、私たちは広い心を持ち、人を赦すことができるようになります。そして、私たちを苦しめた、あのこと、このこと、その一つ一つを明るい光の中で見ることができるようになるのです。「自分の人生を導いておられるのは、神様ご自身である」、そう言える人は、どんなことにも、赦しの心を持つことができます。
《 あなたの心に人を赦す思いが広がりますように 》