SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 55

2013年07月17日 | 日記

     

 55

E.愆祭

 愆祭は罪祭と似ているが、誰かが他人の所有物またはいけにえを盗んだとき、あるいは神聖な物を損なったことについてゆるしを求めたときにのみ、愆祭がささげられた。いけにえの他に、罪人は、盗品の返済または被害総額の五分の一を加えた弁償が求められた。「もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、すなわち預かり物、手にした質草、またはかすめた物について、その隣人を欺き、あるいはその隣人をしえたげ、あるいは落とし物を拾い、それについて欺き、偽って誓うなど、すべて人がそれをなして罪となることの一つについて、罪を犯し、とがを得たならば、彼はそのかすめた物、しえたげて取った物、預かった物、拾った落とし物、または偽り誓ったすべての物を返さなければならない。すなわち残りなく償い、更にその五分の一をこれに加え、彼が愆祭をささげる日に、これをその元の持ち主に渡さなければならない」(レビ記6:2-5)。つまり被害額の20パーセントを加えて弁償し、それから愆祭として犠牲をささげたのであった。

 愆祭の儀式のうちに、故意の罪の赦しを得るためのヒントが見られる。とはいえ、聖所の儀式はもともと、知らずに犯した罪、または計画的でない罪のために定められていた。

 知っていて罪を犯した人のために、愆祭に示された手順は、次のとおりである。第一に、罪人は罪を告白し、それから被害を受けた人のところへ行って自分の悪事を告白し、償いをしなくてはならなかった(レビ記6:6-7参照)。この償いの供え物について、もし誰かが神のみ前に供え物をもっていく途中で、兄弟に対して行った不正を思い出したなら、彼はいけにえを残して兄弟のところへ行き、償いをしてから犠牲をささげるべきであると、キリストは言われた。

   説教集:どうしても愛せない時 ①

       妬みと言う名の鬼がいる

 だいぶ前のことですが、私が九州の教会から東京の教会へ転勤することになりました。移転の日が近づくと、生まれも育ちも熊本の田舎育ちの私は、はたして東京でやっていけるかどうか不安になりました。そこで、東京の情報を集めようと新聞のニュースなども、気を付けて東京の話題を探していました。そうすると、そのうちにたいへんショッキングな事件が掲載されました。

 私の行く教会のすぐ隣の市で殺人事件があったのです。ことの起こりはこうでした。ある団地に向かいあって住む二つの家族。ご主人も、子供たちの年齢もほとんど同じくらいです。ただ、片方の家の奥さんは、たいへん美人で、夫婦仲もよく、子供も成績が良くてしつけもよかった。もう片方の奥さんは、自分があまり美人ではないと思っているし、夫婦仲もよくないし、子供の成績もよくない。そんなことで、この美人でない方の奥さんはいつも隣の奥さんにひけ目を感じていたのです。そのため、隣の奥さんが庭でフトンをパタパタたたいていると、私の家にわざとホコリが飛んでくるようにやっていると邪推しました。 また、家の前を掃除しているのを見ると、自分の家が汚れているので、あてつけて嫌がらせをやっているのだと思うようになってしまったのです。

 このような不愉快な感情を、ひがみとか妬みといいますが、その思いがだんだん強くなっていったある日のこと、隣の奥さんが、買い物カゴを下げて歩いている自分を、後から自転車でサァーッと追い越していきました。チリンチリンとベルを鳴らして、「お先に」と……。それでカーッとなってしまったのです。「私が自転車に乗れないのを馬鹿にしている!」。逆上して家に帰ると、包丁をつかんで隣の家に行きそこの奥さんを、メッタ突きにして殺してしまいました。60ヵ所ほど刺したといいますからすさまじいものです。

 人をうらやましがる、人を妬む、それは結局は、人を愛せない、人ゆるせないということです。そのような心がやがて恐ろしい殺人事件にまで発展していくのです。そして、私たちもまた、人は殺さないまでも心の中では、同じような思いを持つことがあるのです。想像や疑心暗鬼で、心がどす黒い思いでいっぱいになることがあるのです。(続く)