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聖化とは義認の継続的経験のことである。
神は、義認が起こる前に、心の全的降服を要求なさる。そして、人が義認を保持するには、愛によって働き、魂を清める、活動的で生きた信仰を通じての、継続的な服従がなければならない。・・・人が信仰によって義と認められるには、信仰が、感情と衝動を制御する点まで達していなければならない。そして、信仰自体が完全なものとされるのは、服従によってである。
自分たちは信仰によってキリストを受け入れ、救われているのだとどんなに主張しても、もし心の奥底にひそむ罪との戦いに勝たなければ、救いの喜びと平安を得ることはできない。魂の内にある隠れた不安と罪悪感にさいなまれつつ、生きることになるであろう。このような状態で、自分は救われているとどうして言えるだろうか?
結論として、聖化なしの救いはあり得ない。救いは義認にのみ基づいているのであって、聖化が良い実を結んだとしても、それは救いに不可欠な条件ではないとの教えは、非聖書的で聖所の教理に基づいていない。ゆえに、まぎれもなくサタンの欺瞞である。そのような教えは、偽りの安心感をもたらす。キリストは使徒パウロを通して、聖化は救いの経験の一部であると教えられた。「それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」(使徒行伝26:18)。「神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救いを得させ」た(Ⅱテサロニケ2:13)。
聖所の儀式は、神がどのように私たちを贖われるかを示す、精密な青写真〔詳細計画〕である。聖所の儀式の中で、義認を経験する罪人は、聖所〔第一の部屋〕に入っていき、神の恵みと規定によって、どのようにこの経験を維持するかを学ぶ。外庭は義認について教え、聖所は聖化について教えてくれる。この過程において、力の源であられる神は、キリストのみかたちへと私たちを日ごとに成長させてくださるのである。
説教集 永遠の愛 ③ 死んでも死にきれない
さて、私たちが死の問題を考えるときに、どうしても見すごしてはならない問題があります。それは、直接、死の不安や恐れにつながっている問題です。死を恐れる心の背後には、肉体がどれほど苦しむのかわからないということ、天国や地獄はあるのかないのか、愛する者たちとの別離、という様々な不安や恐れがあります。こうした中でも非常に大きいのは、人間の罪意識の問題、過去の罪が正しく精算されているかどうかという点です。
神学校の最終学年のとき、私は海で溺れそうになったことがあります。夏の終わりに、大学生、高校生あわせて4人で、茨城県の久慈川という所の海水浴場へ泳ぎに行きました。その日は海水浴客が多く、私たちは防波堤の外で泳ぎ出したのです。高い波を越えて、どんどん沖へ泳いで行き、だいぶたってから、岸へ引き返そうとして、向きを変えて泳ぎだしました。ところが、いくら泳いでも岸へ近づかないのです。今度こそと思って力いっぱい泳いでも、岸に着くことができません。私は、前に聞いたことのある、引き潮に引かれて、どんどん沖へ流されてしまうのではないかと思ってゾッとしました。幸いひとりの高校生が浮き輪を持っていましたので、それにみんなでつかまり、必死に岸をめざして泳ぎ続けました。けれども、どんなに頑張っても岸に近づきません。そのうちに、体は疲れてくる、波は高くなって頭の上からたたきつけてくる、そして、鼻といわず口と言わず塩水がドッと入ってきました。苦しくなって、もうここで死ぬのか、と思いました。その時、「まだ死にたくない。このままでは天国に行けない。まだいろんなことを精算していない」という気持ちが起きてきました。自分の今までのことを考えると、死んでも死にきれないと思ったのです。
私は、その時、必死に神様に祈りました。生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、死にもの狂いで、「神様、助けて下さい!」と叫んだのです。
それからしばらくして、私たちは、それまでどんなに泳いでも岸の方へ行けなかったのに、見えない糸に引っぱられるようにして、どんどん岸の方へ近づき、やっとのことで砂浜にたどり着くことができました。
後で聞いたところでは、そのあたりは、巻き波という、沖へ向かって流れる速い流れがあって、危険なので遊泳禁止になっていたのでした。そして、前の日にも、同じ時刻に一人の人が溺れて亡くなっていたと聞かされ、もう一度ゾッとしたのでした。
この溺れかかった経験の中で、私は自分が今、死に直面したら、安らかに死を迎えることはできないということがよくわかりました。それは、私がまだ若くてやりたいこともやっていないからというようなことだけではなくて、本質的な自分の罪を精算していないので、このままでは神様の前に出られない存在であるということがはっきりわかったからです。