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神がモーセに石の板(十戒)をお与えになったとき、稲光と雷鳴と地震と暗黒がシナイ山を包んだ。キリストが死なれたとき、稲光と雷鳴と地震と暗黒が彼を取り囲んだ。神は、シナイ山で古い契約を制定なさったように、十字架で新しい契約を制定なさった。先の契約下で条件を果たし、神の戒めに従うことができなかった人たちのために、聖霊を通して心と思いのうちにご自分の律法を刻み込めるようにと、神は究極の愛をあらわされたのであった。「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう・・・」(ヘブル10:16)。この経験の後に、私たちは、ダビデが記したような生き方を始めるのである。「それゆえ、わたしは金よりも、純金よりもまさってあなたの戒めを愛します」(詩篇119:127)。
説教集:愛とゆるし どん底からの出発
この、キリストを拒んでみじめに泣いたペテロが、やがて、立ち直り、大使徒になったと聖書は伝えています。そして伝説によれば、後年ペテロは迫害にあって捕らえられ、死刑にされる時、キリストと同じ十字架ではもったいないと言って、逆さ十字架につけられて殉教していったそうです。人生の決定的瞬間にキリストを裏切り、周囲をあざむこうとしたペテロが、どうして再びキリストの弟子として立ち直ることが出来たのでしょうか。ペテロのこの変わりようは不思議な気がします。日本人の考え方でいうなら、自分を恥じ、身を引いて余生を送るということにでもなりそうですが、ペテロはそうしませんでした。むしろ、自分の失敗をさらけ出し、自分のようなものでもなお、愛し、救って下さる方として、キリストを人々に宣べ伝えていったのです。
このペテロを立ち直らせたもの、その秘訣が聖書に書いてあります。先ほどのキリストとの別れの場面を、ルカという人が書いたものです。
シモン、シモン(ペテロの別名)、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカによる福音書22章31節、32節)
イエス・キリストは、弟子たちと三年半の間一緒にすごして、一人ひとりの個性、性格をよくご存知でした。ペテロが、自分で思っているほど強い人間ではなく、環境や感情に左右されやすい、もろい性格であることもよくわかっておられました。だからこそキリストは「三度わたしを知らない、と言うだろう」と言われたのです。そしてペテロが、「そんなことはありません。決してそんなことはしません」と言っている時にも、「どうしてお前はそんなに思いあがるのだ。もっと自分をわきまえなさい」というような冷ややかな態度でペテロを見つめておられたのではありませんでした。そうではなく、「わかっているよペテロ、お前の気持ちは私が一番よく知っている。お前はわたしを知らないと言うだろう。しかしわたしは、今のお前のその気持ちで十分だ。お前のその真実の心のゆえに、わたしはお前を何度でも赦してあげよう。お前を赦すためにも、わたしは十字架につくのだから……」。
キリストは心の中で、そう言っておられたに違いありません。そして、この変わりやすいペテロのために、彼が絶望したり、卑屈になったりしないように、キリストは心をこめて祈られたのです。人々の前で激しく誓って、「あんな人は知らない」と言ってキリストを拒んだペテロ、そのような者さえも、なおも愛し、赦し、受け入れて下さるキリスト。このキリストの愛の心こそ、ペテロを立ち直らせたものでした。
人間の弱さ,つまずきやすい、倒れやすい性質を知ってなお、人間を、愛して下さる方、それがキリストです。
よく、キリスト教は愛の宗教だと言われますが、愛のもっともすばらしい一面は、「赦し」ということです。愛が極まる時、そこにはいっさいを不問にする赦しの精神があります。そして、このような愛を、キリストは、キリストを信じる者に示して下さるのです。
考えてみますと、これまでの人生を一度も失敗せず、つまずきもせず、人を裏切ることもなく生きた人がいるでしょうか。誰でもその歩みにおいて、苦い涙を流し、自分の足りなさ、愚かさを嘆いたことがあるはずです。決心しても決心しても、その決心が崩れてしまう……。たとえば、酒やタバコやギャンブルをやめようとしてもやめられないとか、「わかっているけれどやめられない」といったことはよく経験します。「ああ、またやってしまった」。これは、私たちの最大の嘆きの一つでしょう。このような私たちを、それにもかかわらず愛し、赦し受け入れて下さる方、その弱さに勝利する力を与えて下さる方、それがイエス・キリストです。