低さのきわみまで
イエス様は、最も低いところまで下ってこられました。彼は、私たちと同じ弱い堕落した肉体をとってこの世に来られたのです。人類が失敗してしまった、その戦いにおいて勝利するために来られたのです。そして、その生き方を私たちが模範とすることが出来るために、イエス様はこの世に来てくださったのです。これが、受肉の奥義です。イエス様が同じ条件で人として勝利されたのだから、私たちもそのようにすることが出来ます!イエスがされたように、「イエスの信仰」を持ち、聖霊様の助けを受けるなら、イエス様のように生きることが出来る、私たちがそのような希望を持つことが出来るように、イエス様は人となられたのです。
ガラテヤ4章4、5節を読みます。
「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」。
なぜここで聖書は、子どもになるという表現ではなく、「子たる身分を授ける」、養子にすると言っているのでしょうか? ローマの法律では、いったん養子にした子供を勘当することは出来なかったのです。養子でない自分の子供であれば、本人が子どもであることが嫌だとか、親が勘当した場合は、親子の縁を切ることが可能でした。しかし、自分の意志で養子とした場合、勘当することは出来なかったのです。その子どもがどういう子なのかをよく分かったうえで、自分の意志で養子としたからです。ですから聖書は、私たちに「子たる身分を授ける」と書いてあるわけです。私たちは、神様の息子、娘となれるのです。これは、なんという大きな特権でしょうか。