愚かなおとめたち
もう一つ、私たちが、明白にしておかなければならないことがあります。それは、多くの人々が、新神学の影響で、福音に対する理解、つまり、「信仰による義」についての理解が間違っていることです。私たちが、いくら真剣に信じていたとしても、それが真理と一致していなければ、私たちを救うことはできません。多くの人が、真剣に偽りを信じていながら、自分は救いの道に確実に立っているかのように、勘違いしています。それは、実に恐ろしいことです。聖書に出ている、一つのたとえ話で、私たちはそのことを知ることができます。
『キリストの実物教訓』からの引用です。
「思慮の浅い女たちによって代表されている種類の人々は、偽善者ではない。彼らは、真理に関心をもち、真理を擁護し、真理を信じる人々に引き付けられてはいるが、聖霊の働きに自分自身をゆだねていないのである。彼らは、岩なるキリスト・イエスの上に落ちて、彼らの古い性質がくだかれていない。この種の人々はまた、石地の聴衆とも言われている。彼らは喜んでみ言葉を受けいれるが、その原則をかみしめて自分のものとはしないのである。その感化が永続しない。聖霊は、人が心の中に新しい性質の植えつけられるのを望んで、同意するのに応じて、人の心にお働きになるのである。ところが、思慮の浅い女によって代表されている人々は、表面的の働きに満足している。彼らは、神を知らない。
彼らは、神の品性を学んでいない。神と交わっていない。であるから、彼らはいかに神に信頼し、ながめ、生きるべきかを知らないのである」。(387p)
マタイ25章1節から13節で、イエス様は、十人のおとめのたとえを語られました。このたとえに出てくる愚かな(思慮の浅い)おとめと言われる五人は、偽善者ではありませんでした。彼女たちは、真理に関心を持ち、真理を擁護し、真理を信じる者たちにひきつけられていて、花婿がおいでになることを待ち望んでいる、賢い(思慮深い)おとめたちと合流した者たちでした。しかし、彼女たちは、聖霊の導きに従っていませんでした。彼女たちは、岩なるイエス様に落ちて、古い性質が砕かれていませんでした。「すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(ルカ20:18)という経験を持っていなかったのです。
また、思慮の浅いおとめに代表される人々は、石地へ落ちた種として描写された人々も表しています(マタイ13:1~9)。それらの人々は、真理のみ言葉をすぐに受け入れましたが、そのみ言葉の原則に従って、それを生活に生かそうとしませんでした。真心からの屈服と悔い改めの経験が不十分であったため、み言葉の感化力は長続きしませんでした。聖霊は、人が心の中に新しい性質が植え付けられるのを望んで、同意するのに応じて、心を新しくして下さるのです。ところが、思慮の浅いおとめたちや、石地の聴衆は、表面的な信仰で満足していて、本当の意味で神様と出会うことがなく、神様の品性を知らなかったのです。そのために、完全に神様にゆだねることもなく、どのように日々神様と交わり、神様と共に生きるかを知らなかったのです。そして彼らは、神様の品性を反映していなかったために、「あなたがたを知らない」(マタイ25:12)と言われてしまうのです。