サタンの足場を持たない
「聖化とは感情の興奮ではありません。天におられる私たちの父なる神様の意志への完全な服従こそ、聖化であります。そして神様の意志は、その神聖な律法に表されています。神様のすべての戒めを守ることが、聖化です。神様の言葉に従順な子どもであることを証明することが聖化です。神様の言葉が私たちを導くべきであって、人間の考えや意見であってはなりません」。(3SM204p)
このように書いてあります。ですから、黙示録の中で、「女の残りの子ら」を「イエスの信仰を持ち、神様の戒めを守る民」だと言っているのです。いいですか、聖化とは神様の御心に服従することです。そして私たちを導くのは神様のみ言葉だけであるべきなのです。
皆さん、私たちの教会の中に人間的な考えが多く入っていることをご存知でしょうか?決して、人間の考えに従わないでください。
『各時代の大争闘』にこのような言葉があります。
「今、われわれの大祭司がわれわれのために贖いをしておられる間に、われわれは、キリストにあって完全になることを求めなければならない。救い主は、その思いにおいてさえ、誘惑の力に屈服されなかった。サタンは、人々の心の中に、なんらかの足場を見つける。心の中に罪の欲望があると、サタンはそれを用いて誘惑の力を表わす」(各時代の大争闘下巻397p)
皆さん、完全ということを、何か不可能な言葉、忌むべき言葉のように感じないでください。神様のご品性を表す者に、私たちはなることが出来るのです。私は、そのことを望んでいます。みなさんは、どうでしょうか?
ここに「サタンの足場」についても書いてあります。若い皆さん、よく聞いてください。ダビデ王が誘惑を受けた時、彼はどうしたでしょうか?神殿の屋上から、バテシバの裸を見続けてしまったのです。彼は、すぐにそこから離れるべきだったのです。その場所から背を向けて離れるべきだったのです。いいですか? 誘惑を受けたらその場所から離れるべきです。そして、神様の助けを求めるべきなのです。
ある人は、「そういうことが出来ない。私は道徳的な力が弱くてそれが出来ない」と言われるのですが、そうではありません。必ず、それは出来ます。出来ないのではなくて、したくない、それが理由なんです。誘惑されたら、その場所から離れるのです。ダビデも、もしかすると、祈りを捧げていたかもしれません。しかし、彼は、見続けたので誘惑に負けてしまったのです。サタンは、足場をみつけて、私たちに誘惑をしかけてくるのです。続きを読みます。
「しかし、キリストはご自身について、『この世の君が来る・・・・。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない』と宣言された(ヨハネ 14:30 )。サタンは、神の子の中に、彼に勝利を得させるなんのすきも見つけることができなかった。神のみ子は、天父の戒めを守られた。そして、サタンが自分に有利に活用することのできる罪が、彼の中にはなかった。これが、悩みの時を耐えぬく人々のうちになければならない状態なのである」。