義認と聖化の始まり
私たちは、ここで一つ確実に理解しておくべきことがあります。私たちが、罪を告白して悔い改め、自分自身の全生涯を神様にゆだねる時、心は再創造され、実際に義なる者となったので、神様はその人を、義と認めて下さるということです。しかし、誤った新神学の教えでは、私たちは、真理に同意したり、イエス様を救い主と信じれば、義と認められる、つまり、私たちの罪が覆い隠されると言います。その後聖化の長い過程を通して、罪が一つずつ解決されていくと言うのです。神様によって赦されて、救いを受け取り、それから少しずつ成長しながら良くなっていくという考えは、聖書の義認の教えではありません。神様は、心に不義や罪を持っている人を、義と認めることはお出来になりません。新神学では、そのありえないことが起こると言います。
人は、真実に悔い改め、全的に献身する時、罪の力から解放され、罪を犯すことが出来ないようにされます(1ヨハネ3:9)。そのように、心が全く新しくされる恵みを義認と呼び、その歩みを、聖霊の助けによって、日々続けていくことを聖化と呼ぶのです。そしてこの聖化の歩みでは、イエス様を模範として目の前に置くので、悔い改めはますます深くなり、そのぶん、愛はますます増し加えられていくのです。このような歩みを続ける人は、豊かな聖霊の実、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22、23)を結ぶようになります。
もちろん、思わぬ失敗や、弱さのために倒れることもあるでしょう。そのような時には、神様の赦しと助けが用意されています。「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(1ヨハネ2:1)