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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第5回 

2017年10月26日 | 日記

3、律法は、いまだに贖いの力を持つ

 次に私たちは、多くのクリスチャンたちが混乱している質問について考えましょう。かりに律法を守る行為が人を救うことが出来ないとするなら、果たして律法を守る必要があるのでしょうか?実はこの質問は、初代教会当時にも問題になっていたことが、パウロがローマ人への手紙6章1節で同じ疑問を提示することによって表されています。「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」。言い換えるなら、恵みは私たちに神様の律法に従わなくても大丈夫だという免許を与えることではないか?という質問でした。これに対する彼の答えは、「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおその中にいきておられるだろうか」(ローマ6:2)でした。

 今日、相手に合わせて寛容になる倫理を受け入れたクリスチャンたちは、律法を犯すことを大目に見るようになり、それを正当化する自分なりの論理や定義を作りあげています。聖書が言う罪とは、まさに十戒を犯す事ですが、今日の多くの神学者たちによって、十戒は現代には合わない古代の法則として扱われています。しかし欺かれないようにして下さい。十戒に記された道徳の一つひとつは、神様ご自身が石の板の上に書き記された時から、今日にいたるまで不変の真理なのです。神様の律法は過去も現在もそして永久に不変であり持続するものです。イエス様は、パリサイ人たちのように形式的外面的な教えとしてではなく、律法を霊的に理解し適用する道を教えて下さいました。人の子キリストの完全な従順の生涯を見る時、私たちはイエス・キリストを通して、律法を完全に順守する歩みが出来ることを知るようになります。

 4、神の律法:鏡

 まず、律法の役割ではないことに注意してみましょう。神様の律法には、罪を指摘する機能はありますが、それは私たちを罪から救う力はありません。律法には、私たちを義として清める恵みも力もありません。人間が十戒の全てを守ろうとしても、思いや動機や目的において、戒めの精神である愛からそれているなら、それは罪と定められるからです。聖書に、「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ3:20)と書いてあるとおりです。結局私たちは、信仰を通して、恵みによって救われる以外になく、それは全く価値のないものに賜物として与えられるのです。

 このとても重要な点について、誤った見解を持たないようにしましょう。私たちは従順になろうとして熱心に尽くす行為によって神様の赦しを得ることはできません。罪人は、どんなに一生懸命律法を守ったからと言って、それで神様に受け入れられ、好意を得ることは出来ないのです。律法は人間を救い義とする目的で作られたものではありません。律法は私たちに清められる必要性を示し、清くして下さるイエス・キリストに私たちを導くために作られたものです。聖書は律法の役割を『鏡』と、表現しました。私自身が実際にはどんな人間であるかを見せる、鏡の機能があるという意味です。「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」(ヤコブ1:23~25)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第4回 

2017年10月25日 | 日記

皆さんは誰のおきてを犯しましたか?使徒パウロは次のように答えています。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったなら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」(ローマ7:7)。使徒パウロでさえ、神様の聖なる律法の前では、自分の心に律法への違反があることを認めざるを得ませんでした。神様の律法は、外面的な行為だけでなく、その心の動機や目的まで裁くからです。神様の律法の前に立つ時、聖霊によって心の動機が明らかに示され、自分の行為がどれほど自己中心的なものであったかがはっきり分かり、自分が神様の前に罪深いものであることを悟ります。こうして、すべての人が律法によって裁かれ、自分が律法によって死刑宣告を受けなければならない罪人であることが明らかにされます。

ではこのような私たちには、もう救いの道はないのでしょうか。これから一生懸命神様の律法に忠実に歩めば、死刑宣告を免れるようにはならないのでしょうか。

このような質問に対して、パウロははっきりとこう答えています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである」(ローマ3:20)。

皆さん、よく考えてみて下さい!行為が人間を義とすることはできないということが真理であることを証明する、正当な理由があります。もしだれかが、物を盗んで捕らえられ10年間の懲役刑を受けたとするなら、彼はその刑が終われば、無罪となることができます。自分に宣告された年数を満たせば、法の要求を充足することが出来ます。彼は宣告された刑罰を監獄の中で全うすることで、いわば自分の行為によって自分自身を救い、罪のない義と認められる状態になることができるのです。

しかし、もしその刑罰が、10年や20年ではなく、死刑であったとするならどうでしょうか。その罪人が何かの行為によって、自分を義とすることができるでしょうか?決してできません。彼がかりに100年間、熱心に罪を悔いながら働いたとしても、律法は以前として死を要求しているのです。そこで人を救う真理は「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない・・・キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた」(へブル9:22~28)と言います。

 これこそまさに、罪人が決して行為では救われないという理由です。罪の刑罰は、10年の懲役とか、50年の強制労働というものではありません。宣告は死であり、血を流すことなくしては律法の要求を充足することはできません。神様の御座が覆されることが決してないように、律法が宣言した罪人への死刑宣告も、もはや、取り消すことができません。罪を許容することは、宇宙を永遠に破滅させる道です。過去の罪を未来の善い行動で償ったり、取り消したりすることはできません。律法が死を要求する限り、罪人が死ぬ以外に、その要求を満足させることはできません。

 


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第3回

2017年10月24日 | 日記

2、死刑宣告を受ける!?

 聖書の真理の中で、最も重要な救いに関する真理について考えてみましょう。多くの人が罪と救いについて感情的な教えをたくさん聞かされていますが、なぜ、罪の赦しには必ず血の犠牲が要求されたのかということなどは、聖書的な理由と論理を十分教えられていないのではないかと思われます。

皆さんは、皆さん自身が裁判官の前に立って、自分に死刑宣告が下されることになる恐ろしい光景を想像できますか?神様のみ言葉が「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と宣告する時、皆さんは罪責感と恐れを感じられるのではないでしょうか。ではなぜ、恐れや罪責感がありますか?なぜなら、それは「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」(ローマ3:23)いるからです。

 聖書にはとても明確に語られているので、誰もその意味を誤解することはありません。「すべての人」という言葉は、田中さんも、木村さんも、山田さんも、鈴木さんも、皆さんの名前が、その中に必ず含まれているという意味です。つまり驚くべき事実は、聖書によれば、皆さん一人ひとりが死刑宣告の下にあるという意味なのです。皆さんは神様の律法によって裁かれ、有罪判決を受けているのです!しかも、この裁判は神様の裁きで絶対に間違いがないために、皆さんが受けた有罪判決をくつがえすための控訴審はないのです。

事実において、罪自体が悪であるがゆえに、罪を犯した皆さんは悪なる罪人です。第Ⅰヨハネ3章4節では「罪は不法(神様の律法を犯すこと)である」と罪の定義がなされています。全ての国家において、その国の法律を犯すことは犯罪であるように、神様の法律である十戒を犯した人は、すべて罪人として裁かれなければなりません。


BibleNabi 第23課 聖霊か悪霊か?最終回 デイビット・カン 

2017年10月18日 | 日記

また、申命記18章9-14節とレビ記20章6,27節には、占いをする者や易者、魔法使い、口寄せなどを、石で撃ち殺さなければならないと言われているのに、神様の僕であったサムエルが巫女を通してサウル王と話をするでしょうか?とうていありえないことです。詩篇146篇4節には、人が死ぬと土へ帰り、その日に全てが消滅すると言っており、伝道の書9章5節でも死者は何も知らないと教えています。ヨブ記7章9,10節は「雲が消えて、なくなるように、陰府に下る者は上がって来ることがない。彼は再びその家に帰らず、彼の所も、もはや彼を認めない」と言われているのです!

 

カトリック教国などでは、時々、イエスの母マリヤが人々の前に現れ、教えを与えたり、不思議な現象が起きたというようなことが報告されたりします。そうしたことは、神様の御言葉とは一致しません。エノクやエリヤは生きて昇天したと聖書は教えています。またモーセは復活して、神様が彼を天へ連れて行かれました。そのため聖書では、エリヤとモーセが変貌の山に現れ、イエス様と対話する場面を弟子たちが目撃したと聖書は言っています。

 

しかし、聖書のどこにもイエスの母であるマリヤが復活したとか、昇天したという聖書の言葉を見つけることが出来ません。ですから、現在、世界のいくつかの場所で起きているマリヤの出現や啓示などは、全く神様とは関係がないという結論を下さなければなりません。悪魔は先に、聖書的ではない誤った教えを教会に受け入れさせ、その後、誤りを信じる人たちに超自然的な現象や、天使の姿、聖母マリヤ、または死者の霊などの姿で現れて、人々を惑わしているのです。

 

私たちは、聖書の言葉という真理を土台として、その上にしっかりと信仰を築き上げ、この最後の時代に洪水のように押し寄せてくるサタンの偽りと惑わしに、だまされないようにしましょう。(完)

 【ご覧いただいた皆様の上に神様の恵みと平安がありますように。なお19日から22日までブログはお休みとなります。また23日に再開予定です。よろしくお願いいたします】。 

 


BibleNabi 第23課 聖霊か悪霊か?第19回 デイビット・カン 

2017年10月17日 | 日記

そして使徒パウロは、イエス様がこの地に再び来られる前に起きることについて、テサロニケ人への第二の手紙2章9-12節で次のように言及されました。「不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである」。

 

この言葉の中で確かなことは、神様のお言葉である真理に従って生き、理解していなければ、悪魔の惑わしに陥るという事実と、真理と悪魔の欺瞞を区別する唯一の試金石が、まさに聖書であるということです。聖書の真理よりも、目に見える体験や奇跡的な現象に引かれる人たちを、悪魔はいつも罠をかけて落とそうとしているのです。

 

D.預言者サムエルとイエスの母マリヤの比較

 

旧約聖書サムエル記上で、私たちはイスラエル王サウルが、神様の命令に従わない後半生を送ったために、霊的に完全に暗くなってしまい、ついに預言者サムエルがこれ以上彼と会うことを拒否し、神様から捨てられた歴史を見ることが出来ます。その後、サムエルが死にサウル王はさらに困窮に陥りました。そしてサムエル記上28章を見ると、ペリシテ軍と戦争を始めることとなったサウル王は、神様の預言者から導きを受けられなくなって、あせったあげく、エンドルにいた口寄せの女のもとを訪れ、将来について聞いたのです。するとエンドルにいたその巫女は、亡き預言者サムエルを呼び出したと、聖書は記録しています。

 

このとき、地から出てきたサムエルは、本当のサムエルだったのでしょうか?聖書は死者の魂は、墓の中で無意識の状態であると明らかに教えているのです。また、もしサムエルが死んだあと戻って来たのであるなら、なぜ彼は地から出て来たのでしょうか?サムエルであれば、当然、天から降りてくるのではないでしょうか。こうしたことから、私たちはこの巫女の言葉が悪魔の行いであり、サタンがサムエルになりすまして、サウル王の前に現れたのだという事実をはっきり知ることができます。