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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

BibleNabi 第23課 聖霊か悪霊か?第18回 デイビット・カン 

2017年10月16日 | 日記

「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(聖霊)を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」(ヨハネ 14:15-17)。

 

使徒ヨハネはここで、神様を愛する人はその戒め(命令、Commandment)に従いなさいと言いました。そして神様は、そのような人たちに聖霊を与えると言っておられるのです。ですから、真理に従うことこそ自分の経験を確かめる最終的な判断基準であり、同時に聖霊を受けられる最も確実な方法だと言えます。

 

C.終末時代のすべての奇跡を神様の言葉で検証せよ

 

私たちはイエス様がマタイによる福音書24章24節で、「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」と言われ、真理をよく理解している神様の民までも惑わされる可能性があると、警告しておられることを絶対に忘れてはいけません。

 

聖書は、最後の時代に起きる奇跡や超自然的な現象が、主に悪魔が人々を惑わせるために行うという事実を説明しています。ヨハネ第一の手紙4章1,6節で、そのことが次のように警告されています。「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである…しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである」。

もう一度言いますが、霊を検証する唯一の基準は、目に見える超自然的な現象でなく、神様の言葉である聖書の教えでなければならないということです。またコリント人への第二の手紙11章14節で「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから」とあり、サタンも美しい天使のような姿で現れ、まぶしいばかりの奇跡や超自然的な現象を起こすことが教えられ、私たちに警戒を呼びかけています。


BibleNabi 第23課 聖霊か悪霊か?第17回 デイビット・カン 

2017年10月15日 | 日記

⑤.賜物経験者たちが最も留意しなければいけない点

 最も重要なことは、神様の言葉を深く学ぶことです。なぜなら真理自体は永遠不変ですが、真理を理解する私たちの知識と経験は間違う可能性があるからです。多くの場合、人は自分の間違った知識と経験をもとに真理を検証しようとします。しかし私たちは真理を基準として、私たちが持った知識と経験を判断しなければなりません。すなわち、私たちの知識と経験で真理を判断するのではなく、真理で私たちの知識と経験を検証しなければなりません。しかし、サタンは経験を真理の上に置こうと努めています。私たちの経験は、それが正しい真理の枠の中にある時だけ価値があるのです。

 聖霊の賜物を体験しているという多くの人が、次のように自分の経験を説明します。

 Ⓐ 私はある驚くほどの奇跡を経験しました。

Ⓑ そして私は、私の経験と非常に似た経験を聖書で発見しました。

Ⓒ そのため、私の経験は真理です。

 このような3段論法によって、彼らは自身たちの経験を聖霊の賜物として受け入れます。このような論理の展開は、非常に説得力があるように聞こえますが、たとえ自分の経験が初代教会の経験と似ているからといって、それが真理の中にあるかどうかは決められないのです。なぜなら、サタンも奇跡を起こすことが出来、聖霊の働きをそっくりに真似ることが出来、人の感情を操ることが出来るからです。

 経験が最高の証拠だと信じる人たちにとって、聖書の真理は、最終的には何の影響力も発揮できなくなってしまいます。このような人たちは、自分が経験した“霊”によって真理を判断しようとします。パウロはこのようなクリスチャンたちに、次のように警告しています。「あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り」(Ⅱテサロニケ 2:10,11)。神様の真理である聖書のお言葉を深く学ばなければなりません。それだけが、最後の時代に繰り広げられるサタンの大欺瞞から抜け出せる唯一の道です。


Bible Nabi 第23課 聖霊か悪霊か?第16回 デイビット・カン

2017年10月13日 | 日記

それでは聖書は、霊を検証する判断基準としてどのようなことを教えているでしょうか。神様のお言葉には次のような5つの聖句が掲げられています。

  「おしえとあかしに尋ねなければならない。もしこのことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」(イザヤ 8:19,20:新改訳)。

 聖霊の賜物を真に受けた人は、神様の教えに従う人生を生き、言行が聖書の教えに一致していなければなりません。聖書の真理を正しく理解し、“教とあかし”に従う人生を生きるクリスチャンは、神様の霊の支配を受けていると言えます。

 ⅱ 「平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」(エレミヤ 28:9)。

 ある人が預言する賜物を受けたら、彼の預言が正確に成就しなければなりません。

 ⅲ 「あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタ イ7:20)。

 ある人が聖霊の賜物を受けたとすれば、彼の品性はキリストの福音を伝える代表者として立てるほど、豊かな聖霊の実が実っていなければなりません。家庭で夫婦喧嘩をして、子供たちにイライラし、金銭問題において利己的だったり、正直さを欠いていたりしている人が、異言を語り、病を治していたりしたら、私たちはそれを天から来た賜物と思えるでしょうか?そのような人がキリストの福音を伝えるなら、彼をよく知っている家族や周りの人たちに、どんな感化を与えることが出来るでしょうか?おそらく人々は、彼が持っている二面性を見て、神様の福音に対して違和感を持つことでしょう。神様がそのような人に聖霊の賜物を与え、福音を伝える働きを任されるでしょうか?そのような人は、自分が悪の霊を受けたかもしれない可能性について、真剣に考えてみなければなりません。

 天は神聖な聖霊の賜物を受ける準備が出来た人たちにだけ、この偉大なプレゼントを与えられるのです。罪を憎み義を愛する新しい心を受けておらず、利己的で自分を高める心を持っている人に、天の偉大な能力がゆだねられたなら、福音伝道事業にどんな混乱と危険がついてまわるか考えてみてください。

 ⅳ 「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている」(Ⅰヨハ 4:2,3)。

 キリストがこの地に、私たちのような肉体で来てくださり、試練と苦痛の中で勝利されたように、真のクリスチャンたちもキリストを模範にして、罪と試練に勝利できるという信仰が、霊を見分ける重要な基準となります。聖霊の賜物を体験するクリスチャンなら、当然罪と誘惑に勝利する生涯を生きなければならず、そのような教えを信じて受け入れる人でなければなりません。聖なる生涯を生きるクリスチャンにだけ偉大な天のプレゼントが与えられるのです。

 ⅴ 「その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙示録 14:11,12)。

 使徒ヨハネも、先のイザヤが言った霊の区別法(イザヤ8:20)に同意しています。最後の時代に、獣の刻印を受けずに、困難を通過してくる真のクリスチャンたちに関する啓示を見せられ、使徒ヨハネは彼らの姿を「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒」たちと表現しています。ですから、最後の時代にはその人が“神の戒めを守り、イエスの信仰を持っている”人であるかどうかは、霊を見分ける明確な基準となります。


Bible Nabi 第23課 聖霊か悪霊か?第15回 デイビット・カン

2017年10月12日 | 日記

③.奇跡は救いの証拠ではない!

 ある奇跡や賜物が、クリスチャンの信心と救いを確証する証拠や基準として判断されてはいけません。奇跡を行い経験した人たちの中にも、結果的には神様に対する不従順と反逆的な人生を送ったことにより、滅亡した例を聖書でからいくらでも見つけることが出来ます。しかし、多くの場合において、私たちは誰にどんな賜物が見られるかによって、お互いの霊的状態を判断するという間違いを犯しています。

 それでは、私たちの信仰と霊的状態を判断する基準は何でしょうか?イエス・キリストがお決めになった基準を見てみましょう。イエス様は、「あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」と言われました(マタイ 7:20)。そしてこの実は、聖霊の実であり、それは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」であると聖書に記録されています(ガラテヤ 5:22,23)。

④.霊を見分ける5つの方法

 クリスチャンが聖霊の賜物を求める時、忘れてはならないことがあります。聖書は最後の時代にサタンが、真理に堅く錨を降ろしていない人たちを混乱させるために、聖霊の働きを偽装すると警告しています。最後の時代に現れるサタンの活動は、「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議」で特徴づけられると聖書は言っています(Ⅱテサロニケ 2:9)。

 サタンの活動が非常に欺瞞的な理由は、「キリストの使徒に擬装」し、「サタンも光の天使に擬装」するためです(Ⅱコリント 11:13,14)。その欺瞞があまりにも本物らしく、驚くべきものであるため、聖書は「選民をも惑わそうとするであろう」と警告しています(マタイ 24:24)。

 このような言葉は、聖霊の賜物を追い求める教会や聖職者たちを、すべて避けなければならないということを意味するでしょうか。違います。この言葉は、全ての教会と全ての宗教的体験、そして全ての奇跡を、神様の御言葉によって検証しなければならないという意味です。パウロが言った通り、「すべてのものを識別して、良いものを守る」ためです(Ⅰテサロニケ 5:21)。この問題について使徒ヨハネが私たちに警告した他の言葉を見てみましょう。「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである」(Ⅰヨハ ネ4:1)。


Bible Nabi 第23課 聖霊か悪霊か?第14回 デイビット・カン

2017年10月11日 | 日記

キリストだけが、特別な聖霊の力を受けられた結果、あのような偉大な人生を歩まれたのではありません。また、自分に聖霊が臨まれたことを証明するために、奇跡を行われたのでもありません。キリストはただ一度も自分自身のために聖霊の力を使われたことはなく、ただ福音を伝え、神様の御心を行うことにだけ聖霊の能力を用いられました。キリストは聖霊に満たされておられましたが、それはただ天の父の御心を黙々と、しかし真剣に実行する人生を通して示されたのです。キリストは、愛と自己犠牲と粘り強さと自己否定の心で生涯を生きられました。それが聖霊に満たされた生き方なのです。

 同様に真のクリスチャンは、理性的な判断力と神様の真理が、感情と感覚を支配しなければなりません。真理は健全な良識の上に立てられ、秩序ある家庭生活を通して、他の人々に最も強力な影響力を発揮できるのです。

 ②.賜物を受けるために、何をどのくらいしなければならないのか?

 このような質問は、その質問自体に問題があるということを理解しなければなりません。そのため、この質問に対する答えを探す前に、私たちは「一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである」という原則を忘れてはいけません(Ⅰコリント 12:11)。聖霊の賜物は私たちの選択によって与えられるのではなく、聖霊ご自身が福音を伝えるために、摂理に従って、ある人を器として用いようとされる時与えられるのです。

 聖霊の賜物は、私たちが自分自身の必要に応じて選ぶのではなく、聖霊がご自身の必要と目的によって、準備された人に与えられるプレゼントであるということが聖書の言う真理です。私たちが聖霊を動かすのではなく、聖霊が私たちを動かされるという事実に心を止めなければなりません。

 神様は真実な聖徒たちを通して奇跡を起こされます。私たちは聖霊の奇跡と賜物を切実に求める祈りを捧げる必要があります。しかし、奇跡や賜物の必要性と、それが行われる場所や時間や環境は、すべて神様の御心と計画にかかっています。私たち人間は、神様の奇跡が行われるのに適切な時間や場所、環境を知ることは出来ません。

 そのため私たちは、神様の奇跡や聖霊の賜物を祈り求めるとき、イエス様がなさった祈りを見習わなければなりません。私たちはこのようにいのらなければなりません「主よ、あなたの栄光のために、聖霊の賜物を切に求める者の願いをきいてください」。「しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさってください」(マタイ26:39)。「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ6:10)アーメン。