生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

美術修行2016年8月18日(木):八田豊展 音で描く/ラッズギャラリー

2016年08月18日 22時14分43秒 | 美術修行
2016年8月18日-2
美術修行2016年8月18日(木):八田豊展 音で描く/ラッズギャラリー


 第5回芝田町画廊公募展/芝田町画廊/梅田駅/入場無料。



 すべて具象だった。






 朝日新聞社が近くにあるのかも。








 八田豊展 音で描く/ラッズギャラリー/福島駅/入場無料。



 ほとんど眼が見えなくなった頃の作品で、絵具が流れる音を聴いて製作されたとのこと。
















美術修行2016年8月17日(水):アンフォルメルと日本の美術/京都国立近代美術館、小畑亮平展/芦屋画廊

2016年08月18日 15時00分31秒 | 美術/絵画
2016年8月18日-1
美術修行2016年8月17日(水):アンフォルメルと日本の美術/京都国立近代美術館、小畑亮平展/芦屋画廊


 あの時みんな熱かった!アンフォルメルと日本の美術/京都国立近代美術館/地下鉄東山、京阪三条/前売り 700円。





 先に、図録(1900円)を買った。後で気がついたが、背表紙は無い。本の上着紙 book jacket も無い。糸で綴じたところが剝き出しで、面白い。わたしが買った個体だけが、落丁ならぬ、落背表紙ではあるまい。表紙には「アンフォルメル」の文字は無いので、わからず、販売係にどこにあるか、訊ねたのだった。高さ150mmの腰巻きには、橙色の地に黄緑色の字で、表題が印刷されているが、対象を手に取って見ないことにはわからない。ざっと眺める browse だけでは引っかからなかった。
 さて、図録を携帯しつつ、観覧した。

 (わたしにとっての)一番の収穫は、村井正誠 1963〈人びと〉(図録109頁)だった。村井正誠の作品は、たとえば神奈川県立近代美術館(葉山館)や和歌山県立美術館やモダンアート展などで見た。その当時は斬新的だったのだろうが、いまいちピンと来なかった。この作品は、見えとしての味わいがある。筆痕が残るような絵具の硬さで、多くは垂直方向にややくねっている帯となっている。この同様の模様が、いろいろな厚さで、ざっと言えば三段階の絵具の厚みであちこち配置されている。主要な効果をもたらすものは、幅が2cm強(測定せず。記憶による。図録から計算して割り出せるだろうが、面倒なので止め。図録109頁に、空間次元の記載は無い。)の長い立体的な線状のもの、10本である(左からに番目に位置する5本は、ほほぼ垂直上にあるので、5つの部分からなる一本の破線とみなすこともできる)。これは、三角錐をその底面で貼りつけたようなものになっている。この不分も面白いが、これらの間に位置する多くの筆痕が背景の黒に浮かび上がり、双方の呼応関係が全体の表面(つまりこの作品の絵画表面。→絵画は「平面」ではない。ただし、垂直的に観るもの、という特徴づけは残してもよい。)として絶大な効果を生んでいる。もちろん、その効果を感受するには、立ち位置での正面、斜め後ろ上方からの照明下での反射具合の変異で、様々な方向から観る場合の見え、を味わうべきである。少なくとも、座り込んで、右方へ左方へ数段階で静止して、見えを(むろんあなた自身の感受性で)鑑賞したい。そうすれば、発見があるだろう。あなたの感性体に棲むデーヴァたち(小さな神々または天使たちの分類については、後の課題とする)が恊働して、あなたの感性が豊かになるかもしれない。筆痕を明示するというやり方は、絵画技法として特に取り上げるものではないと言う人もいるだろうが、少なくともその数段階の厚さによる効果なのか、ことによると別の考え方からのやり方も適用されているかもしれないので、技法として定式化したいところである。基本は、黒色といういわば特別の色の背景に対しての対照物体の種類(ここでは同様に黒い(この混色割合)油絵具の筆触のつけ方など)と程度である。

 二番目の収穫は、正延正俊〈作品〉(図録90頁)である。エナメルを垂らしたのであろうか?。ところどころかすれているので、筆で置いたのか、不明。どうであれ、少し離れれば、垂らしていったように見える。見えからは、長い線がくるくるとくねっている同時的配置である。赤いくるくる線が間に挟まれているので、白黄色線(図録は白色に近いが、現物のその照明下での見えはもっと黄色い)は、10数個の塊を形成しているように見える。眼目は、踊る赤線の背景での、白黄色線のくるくる踊りが心地良い。形跡によって作られた躍動的効果ということになるだろう。説明紙に、「茶系統の画面全体を無数の細かな円環状の線が覆う抽象絵画で知られる。」とあった(説明文は収録されていないと思ってメモした(書きとめた)が、図録の五十音順に並んでいる作家略歴の158頁にあった)。しかし、何度も眺めると、飽きるかもしれない。もしそうなら、くるくる線は職人技的だが、構成としては単純だということに求められるだろう。面白くて、なかなか飽きない、あわよくば観れば観るほど(文章ならば、(時を置いたりして)読めば読むほど味わいがある、前とは違った読みができる)味わえるという作品は、いかにしたら製作できるのか?。

 参考になった作品を、図録の順に述べることにする。

 アンス アルトゥング Hans Hartung 〈T1948-16〉(図録22頁)。もちろんながら、現物は、図録の印刷像よりも良いが、まさに浅い。ブリヂストン美術館にあるアルトゥングの(晩期の?)深い2つの作品とは(少し落ちるもう一つの作品とも)、比べものにならない。

 サム フランシス〈Circular Blue〉(図録26頁)。現物はもっと明るい。佳作ではある。もっと何か、ほしいところ。サム フランシスのあちこちで見た数点では、まあまあ、であって、これは傑作というのにはいまだ出会っていない。一見、水彩かと思うが、その浅い?見えのせいで、(わたしの判断、たとえば問題意識からは)イマイチなのだと思う。透明水彩的な良さ、つまり透明性が一部出ているところもあると思うが、もし、この方向での傑作を当今絵画として as a comtemporary picture 製作するならば、なんらかの絵具技法または配置方法の開発が必要だと思う。→わたしが重視する〈透明性〉を〈重ねる〉ことについては、別の主題として取り上げたい。

 ルーチョ フォンタナ〈空間概念 期待〉(図録2頁)。図録での印刷は紺色だが、美術館での照明下での見えは全体がフタロブルーである。切り裂きの間に見える色(これを空間色だと、布施英利 2013『色彩がわかれば絵画がわかる』は述べたが、間違いだろう。)は、切り裂きのある基本表面の画布の影で灰色的だが、布そのものは黒ではなく白っぽかった(と思う)。この同一物を、所蔵する国立国際美術館で上のほうら掲げられているのを見て衝撃的だったのだが、今回はそれほどでもなかった。これの面白さは、青くぬっぺりと塗り込められた表面に4つの鋭利な切り裂き線が垂直方向に平行して並ぶという、潔い単純さによって見えとして衝撃力があると分析できよう。つまり、衝撃性に寄与しているシステムの構成は、{ぬっぺりとした面状の青色、それに対しての少数の切り裂き線=凹みという虚構的な存在}であろう。これに加えて、両者の相互作用、ここでは両者の(個数と)位置関係による個々の色と大きさの効果である。
 軽井沢のセゾン美術館に多数のフォンタナ作品が展示されていたのを見た。そのうちには、二段に10数本の切れ込み線があるのもあったが、平凡に観えた。垂直に一個の切れ込みという作品もあるが、すぐ飽きるだろう。その一個の切り込みが、たとえばやや斜めに美しい曲線となっていれば、すぐには飽きないかもしれない。
 この辺りを例示とともに原理的に論じた本または論文は無いのだろうか?。

 ジャン-ポール リオペル〈絵画〉(図録28頁)。原題(は仏語?)かその英語訳は、Paintingとなっている。塗り絵である。(線描絵画と面単位構成的絵画 painted picture も含めて、絵画はpictureである。)大原美術館所蔵なので、見たことがあったかもしれない。説明文の「ペインティングナイフの方形の色面で埋め尽くすモザイク的」を、図録に書きとめた。現物はどちらかと言えば、汚い。個々での興味は、1955年までには、方形状(円状でもよい)色面で面を構築するという(考え方とその)具体的方法があり、それを適用した作品が製作された(ということを例証する作品がある)ということである。現代作者なら、このやり方でもっと美しい絵画を作ることはいくらでも可能であろう。しかし、この同じ方法で作った作品は、その方向での優れた作品とはなっても、一つの流儀内での変異の作品であるに留まる。

 水谷勇夫〈狂宴 No.44〉(図録65頁)。ちよっと変わった質感のする佳作である。上部の白っぽい並びなどが、まったりと。説明文に、「80年代には真冬に雪の中に入り、紙に胡粉と墨を流して自然の冷気で凍結させる「凍結絵画」を制作した。」とあった。うーむ、→冷凍庫で凍結させる手順を使って、数打ちゃ、面白いのができるかもしれない。

 松谷武判〈繁殖 63〉(図録69頁)。ビニール系接着剤を使った作品は、あちこちで数回見た。某氏が言ったように、女性器に見える。某氏によると、(製作中を見たのか)うまく作れない場合もあったとのこと。上から、左右に一個ずつ、左下が崩れたように開いている3個と4個の二段構えの7個(口開きは横方向)、口が9個は横方向、1つが縦方向、1つが右下に傾く斜め方向の、計11個、その下にやや大きな縦方向の口開きでゆがんだ楕円形状のが1個、左下方に4個の横方向の口開きで、そのうちの一個は二重で、つまり3つ分の口開きの真ん中に一つが大きく開いた口、という構成配置である。色は濃い赤、桃色、黄色、白に近い薄い桃色。これらが、やや複雑な背景のうえに突出している。などなどと記述しても、画像を見たほうが早い。現物を観るのが一番である。口の表面(したがって表情みたい感じ)も様々である。中央部分に配置されたしわしわ状の口、つるつるとした表面の口とか、分類もできよう。
 繁殖器が繁殖しているのだ。

 伊藤隆康〈無限空間8-64〉(図録98頁)。頭が少し凹んでいる場合が多い、石膏で作った半球状のものを全面に隙間はほとんど無いように貼りつけた作品である。壁掛けの浮き彫り作品。やはり色をつけたいところ。白と黒の2色でも、その配置によって相当変わってくることだろう。

 猪原大華〈水〉(図録104頁)。わたしは具象として観ないのを方針としているので、水の表面を描いた、さらにはそれを変形したものとしては見ていない。純粋に(様々な形と色と表面の質感の)絵具の空間位置(が絵画個体として様々な種類と程度で統一されたものである[したがってバラバラでも混沌としたものでも、なんでも良い。結局は、作者が(基本はなんらかの支持体を使ってあるいは使わず、絵具で製作した)絵画として提示したものである])。そうう見地で観て、左右に揺れる(水面が揺れていると観ない)模様が質感と相まって、面白い。

 工藤哲巳〈増殖〉1956-1957(図録104頁)。木の根に大中小の釘を打ち込んだものである。釘を打ち込んだ作品というのは、誰が最初に始めたのだろうか?。工藤哲巳の前にはあるだろうか?。色もあちこち異なえて塗っている。釘はもちろん多くが錆色つまり茶色となっている。
 たとえば丸太の全面にとか、壁掛けの表面全面に釘を打ちつけた作品は、楢原武正氏のものを、宮の森美術館(立体表現展 '10、2010年、http://sapporo-chokoku.jp/kaihou/36.pdf)とギャラリー大通美術館(おそらく2010年)で数年前に観た。一番最初に観たのは、絵画として全面に釘を打ちつけた小作品で、北海道中札内村での北の大地ビエンナーレ展だった。優秀賞となっていたと記憶するが、数年前にネット検索してその展覧会の記事を見たが、受賞作品のなかには掲載されていなかった。

 
□ 文献 □
平井章一・小倉実子.2016/7/27.A Feverish Era: Art Informel and the Expansion of Japanese Artistic Expression in the 1950s and ’60s.〔奥付での表題は、「あの時みんな熱かった!アンフォルメルと日本の美術」。〕171pp.



 小畑亮平展/芦屋画廊/京阪三条/入場無料。



 場所は、「芦屋画廊→」の表示のある細い路地を入って突き当たり左側である。
 2階はブックカフェになっている。1階が画廊である。
 さて、小畑亮平氏名の作品群は、壁掛け作品10数点と床置き作品が一点だった。(以下も翌日の記憶を想起しての記述です。)いずれも、油絵具の油効果をきかせた表面に艶のある作品である。
 構成部分は、平坦な油絵具の光る面、(おそらく乾燥過程でできる)皺の部分(その上になにかをかけて平坦にしているようだ)、作品によっては盛り上がる部分、である。
 数点は盛り上がる部分が中央に大きく花弁状に、たとえれば薔薇を正面から見た形状で前方の1cm程度で切り取って貼りつけたように立体的に、より細かい分類では浮き彫り relief 状に、配置していた作品であった。
 入口から見て突き当たりの大きな作品では、大部分の画面が一つの輪郭を持つものだった。
 床置き作品〈いかなる共棲みであるのかは(椹)」〉は、
http://www.ashiya-garo.com/work/20160811_RyoheiObata.html
の画像の元になった、中央が大きく一段階へ凹んでいてそこに絵画を配置した机状の作品である。なかなか味わい深い。(裏側を覗き込むことを忘れた。)
 絵画職人的立場からすれば、いわば机面と凹み絵画との間を接続する垂直面はそのままの木地となっているところを、彫刻したいところである。さらには、そこも油絵具を載せて、もっとさらには机面にまでたとえばあちこち油絵具で侵入していくとか、。