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美術修行2017年9月10日(日) :読書録 西岡文彦 2012/10『ピカソは本当に偉いのか?』

2017年09月10日 11時47分25秒 | 美術修行
2017年9月10日-1
美術修行2017年9月10日(日) :読書録 西岡文彦 2012/10『ピカソは本当に偉いのか?』

西岡文彦.2012/10/20.ピカソは本当に偉いのか?.191pp.新潮社.[本体680円(税別)][Rh20170826][大市図阿倍野723]

 宗教改革、そしてフランス革命によって、絵画や彫刻に求められたものが変わっていった。それまではなんらかの伝達機能を持っていたものが、鑑賞だけを目的とする「美術品」に変わった、と西岡文彦(2012/10、109頁)は主張する。

 「教会にあれば神の威光を表し、宮殿にあれば王の権威を表し、市民の家庭になれば暮らしを美しく彩るという、それぞれの場面で実用的な目的を持っていた美術は、美術館という新たに出現した美の「象牙の塔」ともいうべき権威ある施設に展示されることによって、そうした「用途」から切り離されてしまい、美術品それ自体の持つ色や形の美しさや細工の巧みさだけを「鑑賞」される対象になってしまったのです。」
(西岡文彦 2012/10、109頁)。

 なんらかの威光や権威とかを人に受け入れさせるのではなく、色や形、あるいは細工の巧みさといった、美術品自体から受けることが問題または興味の中心となったということである。この段階で、感性が他のしがらみから解放されたと言える。

 また、(おそらく多くの人には徐々に)露わになったことは、色と形、そして作り手の技が、美術品に固有のものと捉えられたということである。
 しかし、色と形で美しさを現出させることが本質的であるという認識は、抽象絵画以降のことであろう。
 後印象派(後期印象派と訳すのは間違い。)と分類される絵画作者たちは、人や風景や静物を描いていたわけである。具体物をなんらかの方法で写像する限り、あるいは元となる外界のまたは夢の記憶といった対象を選ぶ限り、色を変換したり、形を歪めたり省いたり加えたりしても、なんらかの束縛は残る。
 抽象絵画は、具象絵画とは異なる段階のものとなったのである。既存の存在者たちから、自由になったのである。
 【→抽象絵画論】