久しぶりに通る蹴上。春には美しかった桜並木も枝葉の緑が生い茂っていました。これもまた美しく見えました。この日は梅雨空。行き交う人も少なく岡崎の方まで見渡せました。
トンネルの入り口に真新しい立て札が立っていました。
そこには初めて知る事ばかりが色々書かれていました。
「ねじりまんぽ」
●明治21年(1888年)6月に完成。
●高さ 3m、幅 約2.6m、長さ 約18m
●「まんぽ」とは、古い言葉でトンネルのこと。
などが書かれています。その時はこのトンネルをまんぽと呼ぶのかということに気をとられて
よく読まずに、なんで「ねじり」なんだろうと思っていました。
帰ってからよく読むと、
●内側のレンガは斜めに巻かれ、トンネルは、インクラインと直角ではなく、斜めに掘られています。
とあります。
撮った写真を見れば、確かにレンガは斜めに捻って巻くように貼り付けられています。
トンネルの入り口の上に嵌め込まれている漢字四文字
読めず意味も知りませんでしたが、立て札のおかげで読みと意味もわかりました。⬇︎
●雄観奇想 (見事な眺めとすぐれた景色)
明治時代にこの地に始めて現れた洋式の傾斜鉄道(インクライン)。初の偉業となる眺めをこのように表してあるのだと思いました。
トンネルを抜けると〜
静かな別荘を横切り、南禅寺の方へ。入り口の駐車場の奥には見頃のハスが沢山咲いていました。またずっと先の疎水沿いでオニユリが沢山咲いているのを見つけました。
まんぽ(間歩)から始まる漫歩。ぶらぶらそぞろ歩きするのも楽しいものですね。
追記 〜蹴上インクライン、琵琶湖疏水は京都復興の事業の賜物〜
琵琶湖からの疎水で来る舟。運河の落差が激しい場所での舟の運搬方法の為に、ここでは、インクライン方式が採用されました。落差は36m
インクライン方式とは、
勾配のある水路にレールを敷き、台車に船を載せて、ケーブルカーのようにケーブルで引っ張り上下させる。台車に直接船を載せるドライ式(中略)蹴上インクラインは、ドライ式のインクライン方式を採用した。(Wikipedia参照しました)
琵琶湖疎水とは、もともとは琵琶湖から宇治川へ繋ぐ舟運として考えられたもの。
京都市上下水道局のホームページの琵琶湖疎水のご紹介のページを見ると、京都府第三代知事北垣国道による、明治維新後の京都復興策だったことがわかります。
●琵琶湖からの水を引くことが夢だった。
●明治維新による東京遷都で沈みきった京都に活力を呼び戻すために疏水建設を1885年に着工した。手掘りで滋賀と京都の県境の山々にトンネルを通すという完成が危ぶまれる難工事の末、初の技師も全て日本人による人力土木作業で5年後に完成した。
●水力発電所も作り、路面電車が走り、活力を取り戻した。
という主旨の説明が書いてありました。
今となっては、インクラインの跡しかありませんが、この疏水のおかげで、発電所は、蹴上発電所、夷川発電所、墨染発電所が今もあります。
「雄観奇想」の扁額は、その北垣国道によるものです。
対になるトンネルの北側の扁額は、同じ北垣によるもので、
●琵琶湖からの水を引くことが夢だった。
●明治維新による東京遷都で沈みきった京都に活力を呼び戻すために疏水建設を1885年に着工した。手掘りで滋賀と京都の県境の山々にトンネルを通すという完成が危ぶまれる難工事の末、初の技師も全て日本人による人力土木作業で5年後に完成した。
●水力発電所も作り、路面電車が走り、活力を取り戻した。
という主旨の説明が書いてありました。
今となっては、インクラインの跡しかありませんが、この疏水のおかげで、発電所は、蹴上発電所、夷川発電所、墨染発電所が今もあります。
「雄観奇想」の扁額は、その北垣国道によるものです。
対になるトンネルの北側の扁額は、同じ北垣によるもので、
「陽気発処」(精神を集中して物事を行えば、どんなことにも打ち勝てる)
と立て札にありました。
陽気発処は、朱子学の「 陽気発処 金石亦透 精神一到 何事不成」からの引用のようです。
今年の四月 桜満開の蹴上
蹴上発電所の赤レンガ、動物園そばの噴水
琵琶湖の水と先人の知恵と努力の結集によって生かされる今日。その有難さに感謝です✨🙏✨