浪花の桜~ぶらり(2) 天神橋から難波橋

2015年04月02日 | 

天神橋を渡って対岸の桜並木へ。
 


見上げると咲きたての桜。お昼時だったので、桜の下で集まる家族連れでにぎやか。



天神橋の橋のたもとに、大きな鋳鉄製の橋名飾板がありました。近づいてよく見ると
 

明治18年(1885年)淀川大洪水で橋が流出。それまでも何度も流されたが、
それらはすべて木製だった。そこで明治21年にドイツから輸入して架けられた鉄橋の
橋門上に設置された橋名飾板がこれ。ただしこれは日本製。

さらにその後、昭和9年(1934年)に、現在の橋に建て替えられたので、この橋名飾板が
天神橋北詰に設置されているようです。橋に門があったことがわかりました。

現在、どんな橋かというと~下へ回って~
  

すっきりした、アーチになっている橋です。(写真は橋の半分だけ)しばらく歩いて
振り返って撮りました。まだ整備されたばかりです。
 

ぶらりぶらり~話しながら歩いていると、難波橋まで来ていました。
橋の北詰には、2頭のライオンの像があります。橋の南詰にも2頭あり、
「ライオン橋」の愛称があるそうです。

よく見ると片方は、口を開け、もう一方は閉じています。
阿吽(あうん)ですね。

 

橋の東側の歩道が広く、中央に橋の由来を示す石碑があります。
すぐ下は、5月を待つまだ芽ぶきはじめたばかりの中之島バラ園です。
 

その石碑によると


●天満橋・天神橋・難波橋は、浪花三大橋と呼ばれ、大坂・八百八橋を代表する橋であること。
●当時の川幅は、現在より広く、200mもある木製の橋が堺筋の西側に架けられていた。
●当時の反りのあった橋からは、周辺の16の橋や、遠くの山々を眺めることができた。
●橋の上は花火見物や、夕涼みの一等桟敷となり、絶好の行楽地となっていた。

西ひがし みな見に来たれ なにわ橋 すみすみかけて 四四の十六 蔭山梅光

これで、現在は、しゃれて四隅に獅子、ライオンが4頭いるのでしょうか~?

wikipediaによると、
1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の
反対運動が起こったため、一筋東の堺筋に新橋が架けられた。パリのセーヌ川に架かる
ヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われる。この新橋が現在の
難波橋である。


なるほど~先ほどのライオンを撮った後ろに写っていた橋上灯や、
メダリオンの彫刻された装飾された親柱が建っているわけです。






この親柱の屋根のような破風飾り(ペディメント)の下にあるのは、
大阪市の市章 澪標(みおつくし)です。航路を示す、日本の標識です。
明治27年(1894年)に制定されています。

澪標は、川の河口などに港が開かれている所では、土砂の堆積により浅くて
船の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、水深が深く航行が
可能な場所である澪との境にならべて建てられる標識。


みおつくしといえば、百人一首にも、難波と一緒に和歌に詠まれています。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思う  元良親王(890-943)

また5月に難波橋の下なる、中之島バラ園のバラにぜひ逢いに行こうと思います。


桜を見に出かけたら、思わぬ橋めぐりとなりました。江戸の終焉からおよそ150年。
どこもかしこも大きなビルが立ち並ぶ大阪北浜堂島界隈。

大阪ー京都間は、昔は船で下りは半日、上りは一日。今は京阪電車で京都伏見の中書島から
北浜まで特急で38分ほど。タイムトラベルしたような想いに耽りました。





浪花の桜~ぶらり(1) 天満橋から天神橋

2015年04月01日 | 
3月31日 大阪 快晴 最高気温23度



天満橋そばの 八軒家船着場(はちけんやふなつきば)付近から対岸を眺めた景色です。


 

 

●八軒家船着場は、旧淀川(大川)左岸に設けられた船着き場。
●平安時代までに、渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれる外港ができていた。
●八軒家の名の由来は、江戸時代に船宿などが8軒並んでいたことから。
●京と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる船のターミナルであった。

 

大阪城港から戻ってきた観光船。この日の桜は全体では五~六分咲きでした。
 

あっというまに快速で走る船や、四角いカラフルな船、これは、初めて見た水陸両用バスです。
引っ切り無しにいろいろな観光船が通ります。
 

船着き場付近は近年整備されたようで、まだ桜は若木です。
  



この碑文によると、

江戸時代、三十石船のほかに、野崎参りや金毘羅参りに行く船の発着地で、淀川流域の船着き場として
随一の賑わいを見せた。

八軒家と京の伏見との距離、11里あまり(約45km)を上り1日、下り半日で運行した。

明治3年(1870年)に蒸気汽船が就航すると三十石船は衰退し、40年後の明治43年(1910年)に
京阪電気鉄道が天満橋~京都五条間に開通して、八軒家は、淀川の貨客輸送の役割を終えた。

現在、水の都大阪を再生する核となる取り組みとして船着き場が八軒家に完成し、往時のにぎやかな
水上ターミナルの役目が引き継がれています。

この左の絵は、『浪花名所図会』の「八けん屋着船之図」で、浮世絵師 歌川(安藤)広重の作です。(1)

さらに進むと、遠くに噴水が見え、常夜灯が2つ建っています。
  

常夜灯は、夜の乗下船時の安全のために、1860年に地元の町人 年寄堺屋源兵衛により
安政7年に申請され建てられたものの図面から当時の大きさに再現したもの。
堺屋は、京の伏見の寺田屋と提携していて、勤王の志士が利用していた。
また坂本竜馬も八軒家を利用していた。

なお当時の灯籠は、明治時代に生國玉神社に移され、現存しているとのこと。

また、ここは熊野古道の一つ,紀伊路の起点の地であったこと
 

またこのあたりに難波津があり、遣隋使や遣唐使もここから出航していた。

難波津には、さらにもっと古くから国際交流の港で、外交、海外交易施設の鴻臚館の一つ、
難波館(なにわのむろつみ)があったところ。日本書紀にも出てきます。


古代から江戸まで水上の要所として栄えていたことが偲ばれました。

 

 

天神橋南詰から、天満橋方面を臨む。





(1)国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると見ることができます。
浪花名所図会は、三都名所図会の一つで、ほかに東都名所 京都名所之内 があります。

さらに知りたいときは、レファレンス 共同データーベースで調べることもできます。

追記:歌川広重(1797-1858年)

江戸の定火消しの安藤家に生まれる。13歳の時までに両親を亡くし、画才に進む。歌川豊広の門人に。
天保3年(1832年)幕府の行列(御馬進献の使)に加わり上洛。江戸から京へ。
天保4年「東海道五十三次」

広重の襲名者はのちに2代目から5代目まで続く。(wikipedia参照)