訪問日 令和3年6月10日
弘前八幡宮
二の鳥居
塗って間もない鮮やかな朱色の鳥居
振り返ると遠くに一の鳥居が見える
道路の延長線上にあり、駐車場は鳥居の下を進んだ所にある
由緒によると、草創は平安初期 坂上田村麻呂が蝦夷征伐で苦戦を続けたとき八幡村に小祠を建て、宇佐八幡宮を遙拝し武運を祈願したことに始まる
境内にある祠
法喜神社神社
田代大神
右側には社務所がある
拝殿
扁額には社号の「八幡宮」
目的の唐門・本殿の姿が見えずがっかりしていたが、その入口を見つけた
本殿へは左手の赤い格子戸を潜り抜けて行くのだが、社務所の許可が必要だ
重文の社殿があるということで訪れた
本殿・唐門ともに地方色を示しながら全体の形はよく整っており、桃山時代の巧みな建築手法を示す建築物
この神社は始め大浦城(現岩木町)の鎮守として大浦城下にあった
それを津軽藩主二代信枚が高岡城(現弘前城)完成の翌慶長17年(1612年)に鬼門の押さえとして現在地に遷座した
唐門(重要文化財)
慶長17年(1612年)の建立 四脚門、入母屋造、前後軒唐破風付、こけら葺
この門の特徴は、軒の唐破風や四隅の軽い反りなど屋根部分の形態にある
天井を小組格天井とするのも当地の門としてはめずらしい
近年の修理で屋根葺替と彩色の補修をおこない、全体を弁柄塗、組物等を極彩色で復元した
本殿(重要文化財)
慶長17年(1612年)の建立 三間社流造、銅板葺
本殿は、桁行三間梁間二間の身舎(もや)と、桁行三間梁間一間の向拝で構成
身舎の縁廻りを二手先斗と栱(きょう)の腰組で受けている
反対側に回ってみる
本殿、唐門は桃山時代の様式の神社建築として、昭和11年国宝指定、現在は重要文化財建造物となっている
祭神:誉田別命・息長足姫命・比売女神
弘前八幡宮は弘前総鎮守、弘前城鬼門守護の藩内における最も尊貴な社として祭典の斎行社殿社地の維持管理、社家の処遇等一切藩費によって賄われた
神馬
撮影 令和3年6月10日
弘前八幡宮
二の鳥居
塗って間もない鮮やかな朱色の鳥居
振り返ると遠くに一の鳥居が見える
道路の延長線上にあり、駐車場は鳥居の下を進んだ所にある
由緒によると、草創は平安初期 坂上田村麻呂が蝦夷征伐で苦戦を続けたとき八幡村に小祠を建て、宇佐八幡宮を遙拝し武運を祈願したことに始まる
境内にある祠
法喜神社神社
田代大神
右側には社務所がある
拝殿
扁額には社号の「八幡宮」
目的の唐門・本殿の姿が見えずがっかりしていたが、その入口を見つけた
本殿へは左手の赤い格子戸を潜り抜けて行くのだが、社務所の許可が必要だ
重文の社殿があるということで訪れた
本殿・唐門ともに地方色を示しながら全体の形はよく整っており、桃山時代の巧みな建築手法を示す建築物
この神社は始め大浦城(現岩木町)の鎮守として大浦城下にあった
それを津軽藩主二代信枚が高岡城(現弘前城)完成の翌慶長17年(1612年)に鬼門の押さえとして現在地に遷座した
唐門(重要文化財)
慶長17年(1612年)の建立 四脚門、入母屋造、前後軒唐破風付、こけら葺
この門の特徴は、軒の唐破風や四隅の軽い反りなど屋根部分の形態にある
天井を小組格天井とするのも当地の門としてはめずらしい
近年の修理で屋根葺替と彩色の補修をおこない、全体を弁柄塗、組物等を極彩色で復元した
本殿(重要文化財)
慶長17年(1612年)の建立 三間社流造、銅板葺
本殿は、桁行三間梁間二間の身舎(もや)と、桁行三間梁間一間の向拝で構成
身舎の縁廻りを二手先斗と栱(きょう)の腰組で受けている
反対側に回ってみる
本殿、唐門は桃山時代の様式の神社建築として、昭和11年国宝指定、現在は重要文化財建造物となっている
祭神:誉田別命・息長足姫命・比売女神
弘前八幡宮は弘前総鎮守、弘前城鬼門守護の藩内における最も尊貴な社として祭典の斎行社殿社地の維持管理、社家の処遇等一切藩費によって賄われた
神馬
撮影 令和3年6月10日
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