富山県の瑞龍寺の伽藍、石川県にある大乗寺の規矩が天下一ということを、「伽藍瑞龍、規矩大乗」という。
以前、瑞龍寺を訪れたとき寺の規模の大きさと美しさに驚き、前田利長と利常との心打たれる物語を知り、さらに、居心地の良さを強く感じていたので再び訪れることになった。
瑞龍寺の歴史
曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。
加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。
造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。
国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、僧堂、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている。
山門(国宝)
正保2年(1645年)竣工、万治年間に場所を移して建てかえられたが、延享3年(1746年)の火災で焼失後、長らく仮の門が建てられていた。
現存する門は文政元年(1818年)に上棟、同3年(1820年)に竣工したものである。
二重門で、屋根は入母屋造、柿葺き。二重門では下層の屋根を上層よりも大きくつくることが多いが、この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらない。
下層には金剛力士(仁王)像を安置、上層内部には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。
仏殿(国宝)
棟札により万治2年(1659年)の竣工とわかる。
入母屋造、一重裳階(もこし)付きの総欅造りで、屋根は当初杮(こけら)葺きであったが、現状は総重量約47トンの鉛瓦葺きとする。
鉛製の瓦を用いる理由は、俗説では非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、実際は冬季の積雪対策のためだという。
内部を土間床とし、天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点などは禅宗様建築の特色であり、柱、扉、窓などの細部様式も典型的な禅宗様になる。
法堂(国宝)
墨書から明暦元年(1655年)の建立とわかる。
総桧造りの入母屋造、銅板葺き。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きで、横2列、縦3列の6部屋を配する方丈形式の間取りで建坪186坪である。
手前の3部屋の前面には広縁(板間)があり、その前面は左右に細長い土間廊下とする。
こうした平面形式は曹洞宗建築の特色を示す。二代藩主前田利長の位牌を建物中央奥に安置する。
僧堂
重要文化財。延享3年(1746年)に焼失したが直後に再建された。
大庫裏
結露を防ぐために天井には漆喰が塗られ曲線になっている。
建物正面に韋駄天尊像が安置される。
石廟
前田利長公は本能寺の変後、織田信長公父子の分骨を迎えてその霊を慰めたと伝えられる。
利長公の菩提寺瑞龍寺を造営した時、開山広山恕陽禅師が利長公も加えて同じ形式の5基(前田利長、前田利家、織田信長、同室正覚院、織田信忠を祀る)を建造した。
前田利長公墓所
1614年(慶長19年)に没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年(正保3年)に造営したものである。
周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将のものとして全国的に珍しい。
撮影 平成25年5月12日
以前、瑞龍寺を訪れたとき寺の規模の大きさと美しさに驚き、前田利長と利常との心打たれる物語を知り、さらに、居心地の良さを強く感じていたので再び訪れることになった。
瑞龍寺の歴史
曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。
加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。
造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。
国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、僧堂、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている。
山門(国宝)
正保2年(1645年)竣工、万治年間に場所を移して建てかえられたが、延享3年(1746年)の火災で焼失後、長らく仮の門が建てられていた。
現存する門は文政元年(1818年)に上棟、同3年(1820年)に竣工したものである。
二重門で、屋根は入母屋造、柿葺き。二重門では下層の屋根を上層よりも大きくつくることが多いが、この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらない。
下層には金剛力士(仁王)像を安置、上層内部には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。
仏殿(国宝)
棟札により万治2年(1659年)の竣工とわかる。
入母屋造、一重裳階(もこし)付きの総欅造りで、屋根は当初杮(こけら)葺きであったが、現状は総重量約47トンの鉛瓦葺きとする。
鉛製の瓦を用いる理由は、俗説では非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、実際は冬季の積雪対策のためだという。
内部を土間床とし、天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点などは禅宗様建築の特色であり、柱、扉、窓などの細部様式も典型的な禅宗様になる。
法堂(国宝)
墨書から明暦元年(1655年)の建立とわかる。
総桧造りの入母屋造、銅板葺き。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きで、横2列、縦3列の6部屋を配する方丈形式の間取りで建坪186坪である。
手前の3部屋の前面には広縁(板間)があり、その前面は左右に細長い土間廊下とする。
こうした平面形式は曹洞宗建築の特色を示す。二代藩主前田利長の位牌を建物中央奥に安置する。
僧堂
重要文化財。延享3年(1746年)に焼失したが直後に再建された。
大庫裏
結露を防ぐために天井には漆喰が塗られ曲線になっている。
建物正面に韋駄天尊像が安置される。
石廟
前田利長公は本能寺の変後、織田信長公父子の分骨を迎えてその霊を慰めたと伝えられる。
利長公の菩提寺瑞龍寺を造営した時、開山広山恕陽禅師が利長公も加えて同じ形式の5基(前田利長、前田利家、織田信長、同室正覚院、織田信忠を祀る)を建造した。
前田利長公墓所
1614年(慶長19年)に没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年(正保3年)に造営したものである。
周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将のものとして全国的に珍しい。
撮影 平成25年5月12日
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