久能山東照宮
徳川家康の4つの遺言の最初に「遺骸は久能山に埋葬すること」とある
たったこれだけの予備知識で比較的近くにいたこともあり久能山に向かった
1,159段の表参道を登る方法もあったが、日本平からロープウェイで久能山に渡る方法を選んだ
日本平の大型駐車場に車を駐め、往復券と拝観券を購入
下ること僅か5分で東照宮に到着
案内板は、後日、写真の建物を確認するために利用している
手水処
参拝者が多いと手水(参拝前に手を清める水)もこのような形になっている
目の前には急な階段、奥に見える建物は「楼門」
楼門(重要文化財)
第108代 後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてある為、「勅額御門」とも言われている
裏側左右の柵内に狛犬(角のない方が獅子、角の有る方が狛犬)が据えられている
徳川家康公手形
参拝者が入らないように斜め横方向から
久能稲荷神社・厳島神社
末社稲荷神社と末社厳島神社と合殿になって西向きに建っている
手水舎
神厩(重要文化財)
当時は家康の愛馬を飼育していた
現在は左甚五郎作と伝えられる木像の神馬が納められている
五重塔跡
三代将軍家光公の命により寛永13年正月に完成した、高さ約30メートルの五重塔があった
明治時代の神仏分離の際に取り払われた
鼓楼(重要文化財)
創建当時は鐘楼だったが、明治時代の神仏分離の際、鐘を太鼓に替えて今の名称に改められた
唐門(重要文化財)
拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造
神楽殿(重要文化財)
神庫(重要文化財)
校倉造りの建物で、博物館ができるまでは神社に伝わる宝物類が納められていた
日枝神社(重要文化財)
創建当時は本地堂として薬師如来像(東照大権現の本地仏が安置されていた
神仏分離の際に仏像を移し、楼門内東側に鎮座していた山王社の御神体を納めて社名を日枝神社と改めた
撮影 平成29年5月14日
徳川家康の4つの遺言の最初に「遺骸は久能山に埋葬すること」とある
たったこれだけの予備知識で比較的近くにいたこともあり久能山に向かった
1,159段の表参道を登る方法もあったが、日本平からロープウェイで久能山に渡る方法を選んだ
日本平の大型駐車場に車を駐め、往復券と拝観券を購入
下ること僅か5分で東照宮に到着
案内板は、後日、写真の建物を確認するために利用している
手水処
参拝者が多いと手水(参拝前に手を清める水)もこのような形になっている
目の前には急な階段、奥に見える建物は「楼門」
楼門(重要文化財)
第108代 後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてある為、「勅額御門」とも言われている
裏側左右の柵内に狛犬(角のない方が獅子、角の有る方が狛犬)が据えられている
徳川家康公手形
参拝者が入らないように斜め横方向から
久能稲荷神社・厳島神社
末社稲荷神社と末社厳島神社と合殿になって西向きに建っている
手水舎
神厩(重要文化財)
当時は家康の愛馬を飼育していた
現在は左甚五郎作と伝えられる木像の神馬が納められている
五重塔跡
三代将軍家光公の命により寛永13年正月に完成した、高さ約30メートルの五重塔があった
明治時代の神仏分離の際に取り払われた
鼓楼(重要文化財)
創建当時は鐘楼だったが、明治時代の神仏分離の際、鐘を太鼓に替えて今の名称に改められた
唐門(重要文化財)
拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造
神楽殿(重要文化財)
神庫(重要文化財)
校倉造りの建物で、博物館ができるまでは神社に伝わる宝物類が納められていた
日枝神社(重要文化財)
創建当時は本地堂として薬師如来像(東照大権現の本地仏が安置されていた
神仏分離の際に仏像を移し、楼門内東側に鎮座していた山王社の御神体を納めて社名を日枝神社と改めた
撮影 平成29年5月14日
厳島神社・稲荷神社が並んで建立され、更には日枝神社も奉られている…ロープウェイの料金は問題外ですね。
家康38歳の手形に興味が湧きました。身長155㎝、体重60㎏を計算するとBMIは25で「肥満」の部類に入ります。いろいろな場面で家康公の写真を観ましたが、あの羽織姿は誇張ではなく本当に太っていたんですね。貫禄があるからいいです。
神厩は馬の居住地…我が家より立派であることは当然です。
ありがとうございました。
各地にある東照宮ですが、どこの社殿も細部まで美しく、どこから経済的支援があるのかわかりませんが、贅を尽くしているという感じがします。
これで、家康の遺言の地である、久能山(埋葬)→増上寺(葬式)→大樹寺(位牌)→日光(勧請)を全て廻ったことになります。特に意識していたわけではありませんが、満足感があります。日光だけは50年以上前なので、もう一度行こうと思います。重要文化財の塔もありますし。
次回は東照宮で最も重要な「御社殿と神廟」を投稿しますので、感想をお聞かせ下さい。