今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

風猛山 粉河寺(和歌山県紀の川市粉河)

2013年09月12日 | 神社・仏閣
周囲が暗くなったら寝て、朝日と共に行動するというのが、この時の車中泊の特徴であり粉河寺の駐車場に着いたのは朝の6時過ぎ。
「早起きは三文の得」とはよくいったもので、駐車料金や拝観料が不要になることもある。
少し歩くと粉河寺の山門らしきところに着いた。
もちろん観光客らしき人も見あたらず、女子高生が部活動の合宿かなにかで走っている姿だけ。




粉河寺の歴史
和歌山県紀の川市粉河にある天台系の寺院。西国三十三所第三番札所。
山号は風猛山。宗派は天台宗系の粉河観音宗総本山。
本尊は、千手千眼観音菩薩(秘仏)。
伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

粉河寺縁起には2つの説話が

1つ目の話は、紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。
その後のある日、孔子古の家に一人の童子が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。
童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。
8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。
孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。

2つ目の話は、河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。
そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。
喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。
長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。
長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。


大門(重要文化財)
境内入口に建つ。宝永4年(1707年)建立。
入母屋造、本瓦葺きの楼門(2階建て門)。仏師春日作と伝える金剛力士像を安置。







中門(重要文化財)
入母屋造、本瓦葺きの楼門。左右の間に四天王像を安置する。
棟札によれば明和(1764 - 1772年)頃から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成した。




「風猛山」の扁額は紀州十代藩主徳川治宝の筆。



本堂(重要文化財) 









千手堂(重要文化財)
宝暦10年(1760年)建立。本堂の左に建つ宝形造の小堂である。
本尊の千手観音立像は秘仏で、2008年10月1日から10月31日までの間、217年ぶりに開扉された。




念仏堂(光明殿)
江戸時代後期築、総欅造



名勝 粉河寺庭園
国指定の名勝。本堂の擁壁を兼ねた前庭は、豪壮な石組みに植栽を合わせた座視式の枯山水蓬莱庭園である。
桃山時代・上田宗箇の作庭とされる先例のない様式。







仏足石
釈迦の足跡が刻まれている。紋様は千福輪相をあらわし、大きさは人徳の偉大さを象徴している。
うしろの碑は江戸時代の願海上人の筆である。




粉河寺阿弥陀如来座像(紀の川市指定文化財)



撮影 平成22年7月27日

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