今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

高野山真言宗総本山 金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町大字高野山)

2013年09月11日 | 神社・仏閣
いつかは高野山。旅に出る時はいつもそう思ってはいたがなかなか決断がつかなかった。
しかし、室生寺で十一面観音の美しさに感動、その勢いもあり、今日がその高野山へ行く日だと車を走らせた。
高野山の駐車場に着いたのが午後2時半、ところが観光バスや観光客の自家用車で駐車場は満車であったが運良く10分程度で駐めることができた。
高野山についての知識もなく駐車場からどこに行っていいのかもわからず、とりあえず有名な金剛峯寺を目指そうと車を降りた。


<世界遺産>高野山真言宗総本山 金剛峯寺の歴史
和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。
総本山金剛峯寺という場合、高野山全体を指す。
普通、寺といえば一つの建造物で、その敷地内を境内というが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所が寺の境内地であり、高野山全体が寺となる。
 
「金剛峯寺」という名称は、空海が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』というお経より名付けられたと伝えられている。
東西約60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、寺内には狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数48,295坪の広大さと優美さを有している。


総本山 金剛峯寺と書かれた石柱があり、先に進む。 






主殿
金剛峯寺の屋根は檜皮葺、その屋根の上に、桶が置かれている。
これを天水桶といい、雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしてきた。







蟠龍庭(ばんりゅうてい) 
この石庭は、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されている。



龍を表す石は、空海誕生の地である四国の花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが使われている。国内最大級の石庭。



真然大徳廟
高野山第二世として、空海の理想を受け継ぎ、伝法会の基をひらき、次の時代の覚ばん上人に伝えた。



鐘楼(和歌山県指定文化財)
金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼。
万延元年(1860年)に大火で類焼後、大主殿などの建物と共に鐘楼も元治元年(1864年)に再建されたもの。




高野山といえば多宝塔。しかし金剛峯寺では探しても見あたらなかったため、外に出て近くの作業員の男性に「国宝の多宝塔を探しているんですが」と声をかけると。
「分かり難いので」といって塔の見える近くまで案内してくれた。


<世界遺産>高野山金剛三昧院
高野山金剛三昧院は、建暦元年(西暦1211年)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公の菩提を弔うために、妻の北条政子が創建した。
始めは禅定院と称しており、落慶法会には、日本臨済宗の開祖である、明庵栄西禅師を請じ入れ、開山第一世とした。
承久元年(1219年)、三代将軍実朝公の逝去にともない、その遺骨を納め、禅定院を金剛三昧院と改めた。




多宝塔(国宝)
高さ15m。屋根の一辺はおよそ9m。
多宝塔の内部は須弥壇が設けられており、その前には仏師運慶作と伝えられる重要文化財に指定されている秘仏、五智如来像が安置されている。




建立は貞応2(1223)年、高野山で現在残っている、もっとも古い建立物。
北条政子が夫・源頼朝の逝去に伴い創建した禅定院の規模を拡大し、金剛三昧院と改めたときに造営することになった。




滋賀県大津市の石山寺に次いで二番目に古い。



当初、この塔の存在は知らず、朱塗りの塔を予想していただけに最高の気分だ。
しかも、金剛三昧院は高野山内117ケ寺(52ケ寺は宿坊)塔頭寺院として唯一、世界遺産に選ばれた寺院だという。




経堂(重要文化財)
建立は貞応2(1223)年頃で、建築様式が東大寺正倉院などと同じ校倉造り、鎌倉時代初期の校倉造りの建立物としては現存状態が非常によく、重要文化財に指定されている。
内部には「高野版」と呼ばれる経典が書かれた版木が、500枚以上収められている。




<世界遺産>高野山奥の院



寺院群の東端にある一の橋から二の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。

加賀前田家二代利長墓所



安芸浅野家墓所 



結城秀康(家康次男)石廟(重要文化財)



豊臣家墓所(史跡)









御廟
御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥の院である。
一番奥には空海が今も瞑想されている御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。
空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。
「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。




撮影 平成22年7月26日

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4 コメント

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やっと (fukuyama)
2018-11-24 18:22:15
室生寺の過去ブログ検索中、高野山金剛峰寺を発見しました。以前ここに行く予定と書かせて頂き、感想コメント?云々とあったのですが何処へ記述するのが適切かなどと考えているうちにチャンスを逸しました。
今年4/8に行きました。南海電鉄路線一部台風の影響で長期不通、バスでの代替輸送となっていたのが3月中旬に復旧し安心して行きました。
一番の思い出は寒くて寒くて当日は一時雪も降りました。奥の院に向かう辺りは神聖な雰囲気を醸し出しており、他とは異なる気配を感じ取りました。欧米系の観光客が思っていた以上に多く仏教の何処に(建築物 仏像 お墓 雰囲気)興味が有るのだろうと思ってしまいました。しかし行って良かったなと思える処でした。
10年近く2〜3泊くらいで年2回は神社仏閣巡りをしています。次は東京と思いながらも、地震とか交通マヒなどでの異常な大行列報道を見ると恐れをなして中々足が向きません。
靖国神社ブログなど拝見させて頂きました。やっぱり行かなきゃいかんとの思いが強くなって参りました。江田島とか知覧で見た物よりも涙するかも知れません。
パール博士顕彰碑があるのですね。これは知りませんでした。
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次は高野山かも (2014kurumatabi)
2018-11-25 17:14:27
いつもありがとうございます。撮影日をみると随分前になりますね。2年前から、また行かなくてはと思っていますがなかなか実現できないでいます。
靖国神社での出来事をひとつ。神社周辺を幼稚園児や中高生が登下校で利用していますが、清楚な制服の女子高生が通過する際に本殿の方向を見て一礼していました。調べてみると、キリスト教の学校ですが靖国神社に一礼するのが伝統になっているそうです。
私の個人的な考えですが、広島・長崎・沖縄よりも知覧や靖国神社の遺書などに感動します。江田島は行ったことがないので機会がありましたら訪れてみたいと思います。
私のブログで次の旅のきっかけになることがあるとしたら、最高の喜びです。
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江田島 (fukuyama)
2018-11-25 18:22:27
江田島では若い兵隊さんの遺影、遺書を沢山拝見しました。目で物を言ってる迫力あるものばかりでした。遺書も常套句でないものも有りました。優秀な方々である事は読み取れます。この方々のお陰で今があるのだ。生き残っていたらと涙せずには要られませんでした。
知覧では海軍、陸軍の違いがあるのか江田島で感じ取ったものと少し違いました。
靖国神社には叔父が祀られています。一度は参拝をと思っています。
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情報提供ありがとうございます (2014kurumatabi)
2018-11-26 08:11:10
情報提供を頂きありがとうございます。学生時代、弛んだ態度で講義を受けていると先生方から「きけわだつみのこえ」を読め、おまえ達の先輩がどう生きてきたかわかるはずだ。今のような態度は絶対取れないはずだとよく𠮟咤されました。
江田島海軍兵学校は飛び抜けて優秀な人の集まりだと聞いています。常套句ではない遺書を含めこの目で確かめてみたいと強く思いました。
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