今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

松代城(長野県長野市松代町)

2017年11月27日 | 
史跡 松代城(海津城)
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城された
千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城」と呼ばれていた
江戸時代、真田が松代藩主となると、松代城を中心に城下町が発展し



太鼓門
本丸内では一番大きな門



太鼓門前橋



南の櫓門



少し高い場所から。枡形に石垣をまわし本丸を厳重に守っている



海津城址之碑



石垣
本丸周辺や出入口などの重要な部分に用いている



高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さ



十数年前に一度訪れたことがあるが、記憶にある景色とまったく違う



昭和56(1981)年、新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された



その後、長野市により環境整備工事が行われ、平成16(2004)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元された



史跡 真田邸
関ヶ原の戦いの際に、昌幸の長男信之は徳川方に、昌幸と次男信繁(幸村)は豊臣方についた
徳川方が勝利した結果、信之は沼田・上田・松代と領地を移しながら大名として生き残った



元和8年(1622)以降、明治維新まで約250年の間、真田10代にわたり松代藩10万石領有し続けた



表座敷
年中行事や訪問客との対面が行われた部屋と考えられている
唐紙は武家が好んだ菱形



杉戸
杉戸には「境界」の意味があり、奥の私的な空間と手前の公的な空間を仕切っている



御寝所
主人の寝室。天井は花鳥の唐紙、床は寒さを防ぐ二重床になっている






手洗いの間



庭園
9代藩主幸教に好まれた庭園は「水心秋月亭」と名づけられた






史跡 松代藩文武学校
江戸時代後期に創設された信濃国松代藩の藩校である



剣術所
剣術を指南する道場で、剣術各流派を学ぶことができた






東序(とうじょ)
序は校舎を意味する。軍学を主として教えられた校舎






文学所
漢学、兵学、躾方(小笠原流)



弓術所



西序(せいじょ)



明治6年以降、初等教育の場として昭和40年代まで使われた






公園に置かれているブロンズ像






真田宝物館
1966年(昭和41年)に、真田家12代当主・真田幸治が同家に伝わる大名道具などを埴科郡松代町(当時)に寄贈
真田家から譲り受けた収蔵品は武具・刀剣・調度品・絵画・古文書などで、特に古文書が多く総数数万点ともいわれる



撮影 平成29年5月24日

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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美麗です… (OTETSUDAI @)
2017-11-27 21:47:04
海津城などは先に読んだ本にも出て来ましたが、位置的なものは分かりませんでした。
真田村は上田市の山側にあります。解説からみると私の感覚とはかなり異なっています。それだけ真田家の領地が広かったということでしょうか。
先にも触れましたが、今はPCなどで設計図を作成することが出来、それに沿って工事に掛かると思いますが、この当時は手書きで、また測量で綿密な計画の元に築かれたと思えば「昔の人はスゴイ」と思います。
城石や石垣など多分寸部の違いもなく出来ているのはそれなりの手順と何某かの工具があってのことと察します。タモリが石垣を見たら大喜びするだろうと思いつつ目にしていました(ブラタモリ)。
杉戸=結界でしょうか。天上・壁画もスゴイですが寝処
では落ち着かない気がしますが、武士は深く眠らなかったのかと…
手洗いがユニークですね。私は膝が直ぐ傷みが出るので今では洋式でなければダメです。そしてウォッシュレットでなければ…
昔の人はオープンだったのでしょうね。でも男性女性共にお供の方が見ないように周囲を見張っていたのではないかと察します。マナーも良かったのでしょう。
私の家はボロ屋でしたが、トイレは男性用の便器と大用のものが別にありました。汲み取り式でしたので下を見るのが怖かったです。この当時は直接川に流れ落ちたのではないか…何てどうでもいいことを想い出しています。
それと文学所は今でも校舎として使えそうに感じます。
森友○○より立派な感じが…
意外と武芸所が狭いと感じました。最後のブロンズ像は後世に置いたものでしょうが美しいです。
スタッドレスに履き替えていれば見に行きたい感じがします。こちらは雪が降るか否かは疑問ですので思案中です。ありがとうございました。
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いつもありがとうございます (2014kurumatabi)
2017-11-28 00:56:33
この日は朝から雨が降っていて、水上布奈山神社参拝後、休養日と洗濯日に当てようとのんびりしていました。洗濯が終わった頃に青空も見え始め、もう一つ何処かへ行こうと決めた所が松代城でした。ただ、途中に川中島古戦場があり、城に着いたのが16時少し前。急いで城と真田邸を見て、宝物館には閉館10分前に入館。担当者の厚意で時間を過ぎてもいいですよとは言われていたが、大急ぎで回ってきたため、何を見たかの記憶さえありません。自分が撮った写真もよくわからない所もあり、機会があったら再訪したいと思っています。
以前訪れたとき、関ヶ原でどちらが勝っても家名が残るという真田父子の考え方に同意できませんでしたが、「真田丸」を視て背景がわかったため、納得することができました。約250年家名を守ってきたのですから、幸村以上に長男の信之の方が優れていたのかも知れませんね。
松代藩文武学校は小学校の校舎として使われていたようです。教育県でもある長野の基礎になった場所だと思います。
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