今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

国営吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手)

2019年12月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月1日

特別史跡 国営吉野ヶ里歴史公園
私が最後に勤めていた職場では退職者の希望を優先し旅をする習慣がある
私の退職時、九州旅行と、ここ「吉野ヶ里遺跡」を希望した



その後、訪れる機会はあったが叶わず、今回が2回目になる



以前との違いは年齢を重ね、半額以下のシルバー料金となったことだ



逆茂木(乱杭)
米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになった



自分たちの集落を守るため、集落の入り口など特に重要な区域には、尖った木の枝や幹でバリケードを築き厳重に守っていた






巧く作っている



順路に従い「南内郭」から歩き始める



南の守り
南門の「守り」には、正門と脇門があり兵士が待機



「正門」は監視を厳重にするため、楼門になっている



櫓門
櫓の四方に盾が置かれ、出入りする人を見張っている



物見櫓









ここの物見櫓には階段があり、上に上がることができる



上からの景色






およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡
この写真からもその規模が理解できると思う






「大人(だいじん)」の妻の家
軍事や土木工事を取り仕切る「大人」の妻の家



中では母親が櫛で娘の髪をといている



「大人(だいじん)」の家
軍事や土木工事を取り仕切る「大人」の家族の家






中では、道具の出来具合を見ている



「王」の家
「王」と家族が暮らしている家



屋根の形が違っている



王と妻






王の力を示す品々が枕もとに置かれている



煮炊屋
食事を作る建物



ここで作られた食事は王や大人たちの家へと運ばれる



集会の館
王や大人たちが集まり、儀式や話し合いをする建物






「北内郭」の方へ移動する



「北内郭」(王の宮殿)
吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要区域



田植えや稲刈りの日取り、戦いや狩りの祈りなど、重要な事柄は全てここで決定された



当時は、指導者たちだけが出入りできた神聖かつ特別な場所であった



主祭殿
最上階(高さ約16m)は最重要施設
最高司祭者(巫女)が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などが執り行われていた



個人的な考えであるが、私はこの人物こそが「卑弥呼」だと思っている



斎堂
まつりのときに身を清めたり、まつりの儀式に使う道具などが置かれていた






高床住居
ほぼ正方形に近い形をしていることから、吉野ヶ里の最高司祭者の住まいだと考えられている



最高司祭者(巫女)は一般の人々の前には姿を現さなかった
ここはまさしくプライベートな空間だったと思われる



東祭殿
夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にあることから、季節ごとのまつりの儀式が行われた施設と考えられている



織物の倉
祭りや儀式で使われる織物や衣類を収める倉



甕棺(かめかん)墓列
甕棺は棺おけのことで、弥生時代の北部九州だけに見られる



盛り上がった部分に甕棺が置かれている






祠堂
歴代の王の祖霊へお供えを捧げ、お祈りをする建物



北墳丘墓(2100年前の王の威光)



吉野ヶ里集落の歴代の王のものだと考えられている
遺構面と甕棺は本物を展示している



北墳丘墓では、大型甕棺を二個合わせて、そこに大人の遺体をおさめるという葬法を用いられた棺が14基出土している
組み合わされた甕棺の大きさは約2m



公園内を走るバスなども利用できるが、徒歩で戻ることにする






小学生の集団がガイドの話を熱心に聞き学んでいる



柱の近くに成人男性が立っている。比較すると、この建物が巨大であるということがわかる






日差しが強く、帰り際になって若い女性が被っている笠がいいなと思った



出口に着いた。歩きすぎたのか疲労困憊気味。入場する女性の手にも笠



歴史公園センター東口で水分補給をし暫時休憩



撮影 令和元年6月1日

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