法隆寺近くにある道の駅に昨夜は宿泊した。
法隆寺は何度も訪れていたが、隣にある中宮寺には立ち寄ったことはなく、一度、弥勒菩薩を観てみたかったこともあり中宮寺にナビを設定し近くの駐車場を探すため車を走らせた。
夢殿の近くの民家で駐車場として空き地を開放しているところがあったのでそこに駐めることにしたが、時間が7時過ぎと早すぎたので周辺を散歩しながら開門まで待つことにした。
夢殿(国宝)
奈良時代の建立の八角円堂。
堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。
飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。
長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。
よく考えてみると散歩の習慣などなく、方向音痴の男が不慣れな土地で時間を有効に活用することなど無理な話で、当初、予定していなかった夢殿であるが、開門時間が中宮寺より1時間早かったので入ることにした。
拝観料の500円を出すと、受付所の男性から今日は何もないですけどいいですかと確認された。
「時間をつぶしているだけだ」とは言えず、「ええ」とだけ応えた。
だが、この狭い空間で特別拝観もない状態で1時間滞在するということは困難だ。なにせ夢殿しかない。
耐えて25分、夢殿を後にした。観光客は私だけだった。
鐘楼(国宝)
この鐘楼は袴腰と呼ばれる形式の建物。
内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されており、中宮寺から移されたものといわれている。
この鐘は、古くから舎利殿の舎利を奉出するときや、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれている。
本来なら鐘楼の建物も好きだが、隣に中宮寺が見えるのでどうも今日は気持ちが乗らない。
この2ヶ月後、再び法隆寺を訪れたので詳細は後日報告する。
中宮寺の歴史
奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。
宗派は聖徳宗に属す。山号を法興山と称し、本尊は如意輪観音、開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされている。
本堂
本堂は高松宮妃の発願で1968年(昭和43年)に建立した和風の現代建築である。
本堂が比較的新しいことは知っていたが、遷都1300年の歴史ある寺を観てきただけにこの新しさには違和感を覚えた。
この本堂奥に「木造菩薩半跏像(国宝)」が安置されている。
本物は写真で見るよりはずっと美しい。
黒光りしている仏像を観て傍にいた係の女性に「磨いているのですか」と愚問を発してしまったほどだ。
中宮寺では灯明に油を使っているので油煙が長い年月で仏様に光沢を与えていると丁寧に説明してくれた。
中宮寺は尼寺ということもあり、今年の流行語となりそうな「おもてなし」を感じさせる。
気分がよかったので売店で沢山の買い物をした。
法起寺の歴史
奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院。古くは岡本寺、池後寺とも呼ばれた。
山号は「岡本山」(ただし、奈良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである)。
本尊は十一面観音。聖徳太子建立七大寺の一つに数えられることもあるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことである。
「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として世界遺産に登録されている。
これまで法隆寺には観光バスを利用していたため、法起寺はコースには入らず、法隆寺から他に移動するとき
車窓から三重塔を眺めるだけであった。
三重塔(国宝)
706年頃の完成とみなされている。高さ24メートルで、三重塔としては日本最古である。
また、特異な形式の三重塔である薬師寺東塔を除けば、日本最大の三重塔と言われている。
休憩所で休んでいると寺のポスターが貼ってあり三重塔が写っていた。
さっそく撮影したであろう、その場所にたってみるとやはり独特の雰囲気がある。
寺名について
寺名は20世紀末頃までの文献では「ほっきじ」と読んでいたが、現在、寺側では「ほうきじ」を正式の読みとしている。
これは、法起寺が法隆寺とともに世界遺産に登録されるにあたり、「法」の読み方に一貫性が欲しい、という理由により、高田良信法隆寺管長により、「ほうきじ」を正式とする、という判断がされたためである。
聖天堂
この後、法輪寺に向かうが、法輪寺の塔は1944年、雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたもの。
焼失した塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。
平成22年7月28日
法隆寺は何度も訪れていたが、隣にある中宮寺には立ち寄ったことはなく、一度、弥勒菩薩を観てみたかったこともあり中宮寺にナビを設定し近くの駐車場を探すため車を走らせた。
夢殿の近くの民家で駐車場として空き地を開放しているところがあったのでそこに駐めることにしたが、時間が7時過ぎと早すぎたので周辺を散歩しながら開門まで待つことにした。
夢殿(国宝)
奈良時代の建立の八角円堂。
堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。
飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。
長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。
よく考えてみると散歩の習慣などなく、方向音痴の男が不慣れな土地で時間を有効に活用することなど無理な話で、当初、予定していなかった夢殿であるが、開門時間が中宮寺より1時間早かったので入ることにした。
拝観料の500円を出すと、受付所の男性から今日は何もないですけどいいですかと確認された。
「時間をつぶしているだけだ」とは言えず、「ええ」とだけ応えた。
だが、この狭い空間で特別拝観もない状態で1時間滞在するということは困難だ。なにせ夢殿しかない。
耐えて25分、夢殿を後にした。観光客は私だけだった。
鐘楼(国宝)
この鐘楼は袴腰と呼ばれる形式の建物。
内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されており、中宮寺から移されたものといわれている。
この鐘は、古くから舎利殿の舎利を奉出するときや、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれている。
本来なら鐘楼の建物も好きだが、隣に中宮寺が見えるのでどうも今日は気持ちが乗らない。
この2ヶ月後、再び法隆寺を訪れたので詳細は後日報告する。
中宮寺の歴史
奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。
宗派は聖徳宗に属す。山号を法興山と称し、本尊は如意輪観音、開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされている。
本堂
本堂は高松宮妃の発願で1968年(昭和43年)に建立した和風の現代建築である。
本堂が比較的新しいことは知っていたが、遷都1300年の歴史ある寺を観てきただけにこの新しさには違和感を覚えた。
この本堂奥に「木造菩薩半跏像(国宝)」が安置されている。
本物は写真で見るよりはずっと美しい。
黒光りしている仏像を観て傍にいた係の女性に「磨いているのですか」と愚問を発してしまったほどだ。
中宮寺では灯明に油を使っているので油煙が長い年月で仏様に光沢を与えていると丁寧に説明してくれた。
中宮寺は尼寺ということもあり、今年の流行語となりそうな「おもてなし」を感じさせる。
気分がよかったので売店で沢山の買い物をした。
法起寺の歴史
奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院。古くは岡本寺、池後寺とも呼ばれた。
山号は「岡本山」(ただし、奈良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである)。
本尊は十一面観音。聖徳太子建立七大寺の一つに数えられることもあるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことである。
「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として世界遺産に登録されている。
これまで法隆寺には観光バスを利用していたため、法起寺はコースには入らず、法隆寺から他に移動するとき
車窓から三重塔を眺めるだけであった。
三重塔(国宝)
706年頃の完成とみなされている。高さ24メートルで、三重塔としては日本最古である。
また、特異な形式の三重塔である薬師寺東塔を除けば、日本最大の三重塔と言われている。
休憩所で休んでいると寺のポスターが貼ってあり三重塔が写っていた。
さっそく撮影したであろう、その場所にたってみるとやはり独特の雰囲気がある。
寺名について
寺名は20世紀末頃までの文献では「ほっきじ」と読んでいたが、現在、寺側では「ほうきじ」を正式の読みとしている。
これは、法起寺が法隆寺とともに世界遺産に登録されるにあたり、「法」の読み方に一貫性が欲しい、という理由により、高田良信法隆寺管長により、「ほうきじ」を正式とする、という判断がされたためである。
聖天堂
この後、法輪寺に向かうが、法輪寺の塔は1944年、雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたもの。
焼失した塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。
平成22年7月28日
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