訪問日 令和4年10月13日
春日山 林泉寺
曹洞宗の寺院 明応6年(1497年)の創建
開基は越後守護代・長尾能景
惣門(上越市指定文化財)
10年ほど前、JAFの表紙に朝霧に包まれた茅葺の惣門の写真が掲載されていた
キャンピングカーを購入した年で、最初に訪れる場所はここだと決めていた
あれから4・5回は訪れている。思い出の寺の一つになる
山門
拝観料:500円(含宝物館)
大正14年(1925年)上杉謙信生誕400年を記念して山門(二重門)が再建された
仁王像
山門を通過する際、上を見上げると「龍」の絵が2枚描かれている
享禄3年(1530年)1月21日 春日山城に生まれる(幼名は虎千代)
虎千代は7歳で城下の林泉寺に入門し、14歳で呼び戻され元服して「景虎」と称するまで林泉寺の六世住職「天室光育」から学問を学んだ
戦国の武将の中でも教養が高く、信仰心が厚い謙信の素養はこの時期に培われたといわれている
景虎がのちに上杉家を継承し「上杉輝虎」を称すると、林泉寺は上杉家の菩提寺となる
鐘楼前にある可愛い石仏が復活していた(嬉しい)
鐘楼
本堂
平成9年(1997年)開創500年を記念して新たに本堂が建立された
本尊:釈迦牟尼仏
墓所入口
案内図
石柱に「謙信公御墓所」
石段の脇に置かれている石仏
上杉謙信公の御墓
天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったが、遠征の準備中の3月9日に春日山城内の厠で倒れた
昏睡状態に陥り、その後意識が回復しないまま3月13日の未の刻(午後2時)に死去した。享年49
遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め、漆で密封した
この遺骸は当初春日山城内の不識院に埋葬され、林泉寺に供養塔が建立された
この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置された
明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された
墓石の横に「天正六年三月十三日」と刻まれている
川中島戦死者供養塔
謙信の墓の横に建っている
本堂に戻る
鐘楼と山門
宝物館
謙信の人物像を知る上で貴重な展示物が多い
宝物館からの眺め
山門の「第一義」は謙信の直筆(本物は宝物館)
山門上部にある2枚の「龍」
撮影 令和4年10月13日
春日山 林泉寺
曹洞宗の寺院 明応6年(1497年)の創建
開基は越後守護代・長尾能景
惣門(上越市指定文化財)
10年ほど前、JAFの表紙に朝霧に包まれた茅葺の惣門の写真が掲載されていた
キャンピングカーを購入した年で、最初に訪れる場所はここだと決めていた
あれから4・5回は訪れている。思い出の寺の一つになる
山門
拝観料:500円(含宝物館)
大正14年(1925年)上杉謙信生誕400年を記念して山門(二重門)が再建された
仁王像
山門を通過する際、上を見上げると「龍」の絵が2枚描かれている
享禄3年(1530年)1月21日 春日山城に生まれる(幼名は虎千代)
虎千代は7歳で城下の林泉寺に入門し、14歳で呼び戻され元服して「景虎」と称するまで林泉寺の六世住職「天室光育」から学問を学んだ
戦国の武将の中でも教養が高く、信仰心が厚い謙信の素養はこの時期に培われたといわれている
景虎がのちに上杉家を継承し「上杉輝虎」を称すると、林泉寺は上杉家の菩提寺となる
鐘楼前にある可愛い石仏が復活していた(嬉しい)
鐘楼
本堂
平成9年(1997年)開創500年を記念して新たに本堂が建立された
本尊:釈迦牟尼仏
墓所入口
案内図
石柱に「謙信公御墓所」
石段の脇に置かれている石仏
上杉謙信公の御墓
天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったが、遠征の準備中の3月9日に春日山城内の厠で倒れた
昏睡状態に陥り、その後意識が回復しないまま3月13日の未の刻(午後2時)に死去した。享年49
遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め、漆で密封した
この遺骸は当初春日山城内の不識院に埋葬され、林泉寺に供養塔が建立された
この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置された
明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された
墓石の横に「天正六年三月十三日」と刻まれている
川中島戦死者供養塔
謙信の墓の横に建っている
本堂に戻る
鐘楼と山門
宝物館
謙信の人物像を知る上で貴重な展示物が多い
宝物館からの眺め
山門の「第一義」は謙信の直筆(本物は宝物館)
山門上部にある2枚の「龍」
撮影 令和4年10月13日
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