早朝から気温が上がっているのか暑さで目が覚めた。昨夜は意図を持って道の駅「井波」に宿泊した。
今日のスタートである瑞泉寺へ参拝するためだ。今回が2度目の訪問になるが、前回、何かを見逃したり、悔いを残したからではなく、寺内各所にある井波彫刻をゆっくり観たいと思ったからだ。
杉谷山 瑞泉寺の歴史
明徳元年(1390年)、本願寺5世綽如上人の開創、後小松天皇の勅願所。
永和年中(1375~1979)綽如上人は、杉谷の山中に草庵を結んで、宗祖親鸞聖人の教義をひろめていた。
当時、中国から国書が朝廷へ送られてきたが、その文字が難解を極めたため、青蓮院門跡は、博学多識の綽如上人を推挙した。
上人は越中から上洛し、かくて国書の意義が明らかになり、返書までしたため国の対面を保つことができた。
天皇は大変喜び、周圓の号を授け、聖徳太子絵伝八幅と太子二歳の南無仏木像を下賜された。
また、上人に北陸真宗の中心寺院建立の願いのあることを知らされた天皇は勧進状を認める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可された。
明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立された。
この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていく。

山門(県指定文化財)
天明5年(1785)釿始。京都の大工柴田新八郎が棟梁となって再建が進められるが、工事中に本山(京都 東本願寺)が全焼し、井波大工、松井角平が棟梁を受け継ぎ、文化6年(1809)に上棟式を行い山門を完成させた。
総欅の重層伽藍造り。楼上には釈迦三尊の木像を安置している。


太子堂
大正7年(1918)に井波彫刻の粋を集めて再建された。約16間(29m)四面、総面積約255坪の重層伽藍。
本尊は後小松天皇が綽如上人へ下賜された太子二歳の尊像。
毎年、7月21日~29日までに行われる太子伝会は、聖徳太子の一生を八幅の絵伝をもとに絵解きされる全国でも稀な行事。



鐘楼堂
昭和8年(1993)に再建。大梵鐘の大きさ(3372Kg)は北陸随一。井波大工の代表的建造物として名高い。

勅使門
寛政四年(1792年)瑞泉寺勅使門 菊の門扉、両脇に彫刻した「獅子の子落とし」は番匠屋九代七左衛門の代表作で、狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされている。

井波彫刻の由来
江戸時代中期、瑞泉寺本堂再建のおり、本堂彫刻のため、京都本願寺より、御用彫刻師・前川三四郎が派遣、このとき地元大工・番匠屋九代七左衛門ら四人がこれに参加し、前川三四郎に彫刻の技法を本格的に習ったのが井波彫刻の始まりである。
以後、その門流が江戸時代末期頃まで主に神社仏閣彫刻などにその技法を競っていた。
明治時代に入ってから寺院欄間に工夫をこらして新しい住宅用の井波欄間の形態が整えられ、特に初代・大島五雲は欄間彫刻の研究に没頭して新生面を開いた。




駐車場から山門までの数100mは、落ち着きがあり雰囲気のある古い町並みが続く。
彫刻処に入ると若い女性が一心不乱に欄間の彫刻をしている。伝統を引き継ぐという強い意志が感じられる光景だった。

撮影 平成25年5月12日
今日のスタートである瑞泉寺へ参拝するためだ。今回が2度目の訪問になるが、前回、何かを見逃したり、悔いを残したからではなく、寺内各所にある井波彫刻をゆっくり観たいと思ったからだ。
杉谷山 瑞泉寺の歴史
明徳元年(1390年)、本願寺5世綽如上人の開創、後小松天皇の勅願所。
永和年中(1375~1979)綽如上人は、杉谷の山中に草庵を結んで、宗祖親鸞聖人の教義をひろめていた。
当時、中国から国書が朝廷へ送られてきたが、その文字が難解を極めたため、青蓮院門跡は、博学多識の綽如上人を推挙した。
上人は越中から上洛し、かくて国書の意義が明らかになり、返書までしたため国の対面を保つことができた。
天皇は大変喜び、周圓の号を授け、聖徳太子絵伝八幅と太子二歳の南無仏木像を下賜された。
また、上人に北陸真宗の中心寺院建立の願いのあることを知らされた天皇は勧進状を認める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可された。
明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立された。
この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていく。

山門(県指定文化財)
天明5年(1785)釿始。京都の大工柴田新八郎が棟梁となって再建が進められるが、工事中に本山(京都 東本願寺)が全焼し、井波大工、松井角平が棟梁を受け継ぎ、文化6年(1809)に上棟式を行い山門を完成させた。
総欅の重層伽藍造り。楼上には釈迦三尊の木像を安置している。


太子堂
大正7年(1918)に井波彫刻の粋を集めて再建された。約16間(29m)四面、総面積約255坪の重層伽藍。
本尊は後小松天皇が綽如上人へ下賜された太子二歳の尊像。
毎年、7月21日~29日までに行われる太子伝会は、聖徳太子の一生を八幅の絵伝をもとに絵解きされる全国でも稀な行事。



鐘楼堂
昭和8年(1993)に再建。大梵鐘の大きさ(3372Kg)は北陸随一。井波大工の代表的建造物として名高い。

勅使門
寛政四年(1792年)瑞泉寺勅使門 菊の門扉、両脇に彫刻した「獅子の子落とし」は番匠屋九代七左衛門の代表作で、狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされている。

井波彫刻の由来
江戸時代中期、瑞泉寺本堂再建のおり、本堂彫刻のため、京都本願寺より、御用彫刻師・前川三四郎が派遣、このとき地元大工・番匠屋九代七左衛門ら四人がこれに参加し、前川三四郎に彫刻の技法を本格的に習ったのが井波彫刻の始まりである。
以後、その門流が江戸時代末期頃まで主に神社仏閣彫刻などにその技法を競っていた。
明治時代に入ってから寺院欄間に工夫をこらして新しい住宅用の井波欄間の形態が整えられ、特に初代・大島五雲は欄間彫刻の研究に没頭して新生面を開いた。




駐車場から山門までの数100mは、落ち着きがあり雰囲気のある古い町並みが続く。
彫刻処に入ると若い女性が一心不乱に欄間の彫刻をしている。伝統を引き継ぐという強い意志が感じられる光景だった。

撮影 平成25年5月12日
30日以上前のものは受け取らないようにと記されていますのでクリックだけにしておきます。
今回コメントをいただいた井波(瑞泉寺)は彫刻で有名な土地で、先日テレビでも紹介されていました。私自身、二度目の訪問となります。
そして、こんな片田舎に本堂の大きさに圧倒されました。
5月の「よいやさ祭」も見ものですょ。
井波は五木寛之氏の「百寺巡礼」というDVDを見て立ち寄ったのが最初。今回、2回目の訪問になります。
瑞泉寺の彫刻と落ち着いた町並みが特に気に入っています。5月の「よいやさ祭り」についての知識はなく、ネットで検索してみました。また訪れる機会がありましたら、祭りのことも意識して行動したいと思います。
お気に入り祭ですから、富山時代は 毎年 参りました。
井波の町にはいると、木の香りがただよっています。^^
その後、私も気になってネットで検索していましたが、すっかり祭りのことが記憶から抜け落ちていました。私の行動はフェリー運賃が安くなるGW明けで、祭りとのタイミングが合わない日程になってしまいます。今年は東北6県を3週間の日程で回りましたので、来年は訪れてみたいと思います。私は木の香りを感じ取ることはできませんでしたが、井波の町並みと彫刻は大好きです。