訪問日 令和元年10月30日
くがみ山 国上寺 その2
賛否両論のあった本堂の「イケメン偉人空想絵巻」を後にする
大師堂(御仮堂)
宝永8年(1711)に建造、弘法大師像を安置している
本堂を建立している間、本尊阿弥陀如来・脇侍等を安置していたことから、「御仮堂」ともいわれている
堂内の様子
「弘法大師像」
弘法大師 五鈷掛けの松
空海が唐より帰朝の際、一寺建立と請願され、日本に向け三鈷杵と五鈷杵(ごこしょ)を投じられた有名な伝説話がある
飛んできた三鈷杵が届いた所が高野山の松に掛り、もう一つの五鈷杵が飛んで来たのがこの松だという
高野山は知っていたがもう一つがここだとは知らなかった
雷井戸
良寛禅師像
寺号石柱
修学旅行の女子高生が山門前で話をしている
風神雷神像
水子子育地蔵
方丈講堂(別称:客殿)
堂内の様子
「千手観世音菩薩像」が安置されている
幸せ観音
観音像の周りを時計回りで3回巡ると幸せが授かるという
鏡井戸
縁切り地蔵
寺社では縁結びは多いが「縁切り」は少ない
縁を切りたくても切れない縁を託す地蔵
長寿(ながいき)地蔵
香児山(かごやま)
案内がなければ通り過ぎてしまう。知識の有無で価値が変わってしまうのが世の常だ
五合庵
良寛は越後国出雲崎に生まれた。22歳の時、備中玉島の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する
円通寺は経を学ぶことより、勤労に励むことを第一としていた。「一日作らざる者は、一日食わず」国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説いた
良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた
48歳の時、国上寺の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた)にて書を学ぶ
無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた
良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた
良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや手毬をついたりしてよく遊んだという。
名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』の字を書いた。
千眼堂吊橋
高所恐怖症なので遠くから見るだけと心に誓い吊橋に近づく
五合庵と朝日山展望台を結ぶ赤い吊り橋。 名前はこの橋が架かる「千眼堂谷」から取られている
長さ124m、幅1.5m、橋上から谷底までは約35m
橋の左右には高い木が伸びていて恐怖心を感じなかったので渡ってみることにした
橋の上からの眺望
あまり揺れも感じず何とか渡りきった
すでに修学旅行生の姿もなく静かな境内を後にした
撮影 令和元年10月30日
くがみ山 国上寺 その2
賛否両論のあった本堂の「イケメン偉人空想絵巻」を後にする
大師堂(御仮堂)
宝永8年(1711)に建造、弘法大師像を安置している
本堂を建立している間、本尊阿弥陀如来・脇侍等を安置していたことから、「御仮堂」ともいわれている
堂内の様子
「弘法大師像」
弘法大師 五鈷掛けの松
空海が唐より帰朝の際、一寺建立と請願され、日本に向け三鈷杵と五鈷杵(ごこしょ)を投じられた有名な伝説話がある
飛んできた三鈷杵が届いた所が高野山の松に掛り、もう一つの五鈷杵が飛んで来たのがこの松だという
高野山は知っていたがもう一つがここだとは知らなかった
雷井戸
良寛禅師像
寺号石柱
修学旅行の女子高生が山門前で話をしている
風神雷神像
水子子育地蔵
方丈講堂(別称:客殿)
堂内の様子
「千手観世音菩薩像」が安置されている
幸せ観音
観音像の周りを時計回りで3回巡ると幸せが授かるという
鏡井戸
縁切り地蔵
寺社では縁結びは多いが「縁切り」は少ない
縁を切りたくても切れない縁を託す地蔵
長寿(ながいき)地蔵
香児山(かごやま)
案内がなければ通り過ぎてしまう。知識の有無で価値が変わってしまうのが世の常だ
五合庵
良寛は越後国出雲崎に生まれた。22歳の時、備中玉島の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する
円通寺は経を学ぶことより、勤労に励むことを第一としていた。「一日作らざる者は、一日食わず」国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説いた
良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた
48歳の時、国上寺の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた)にて書を学ぶ
無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた
良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた
良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや手毬をついたりしてよく遊んだという。
名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』の字を書いた。
千眼堂吊橋
高所恐怖症なので遠くから見るだけと心に誓い吊橋に近づく
五合庵と朝日山展望台を結ぶ赤い吊り橋。 名前はこの橋が架かる「千眼堂谷」から取られている
長さ124m、幅1.5m、橋上から谷底までは約35m
橋の左右には高い木が伸びていて恐怖心を感じなかったので渡ってみることにした
橋の上からの眺望
あまり揺れも感じず何とか渡りきった
すでに修学旅行生の姿もなく静かな境内を後にした
撮影 令和元年10月30日
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