訪問日 令和2年10月3日
世界遺産 姫路城 その2
城外に出た。正直な話し城内では何処を歩いているかも分からなかった
国宝の大天守は外から眺めると5階建てに見えるが、内部の造りは地上6階、地下1階の7階構成になっている
この場所は休憩用のベンチもありゆっくり眺めるには良い場所だ
石垣の形状を眺めながら下に下りて行く
石垣の積み方や加工は、羽柴氏時代は「野面積み」
池田氏時代は「打ち込み接ぎ」「算木積み」になっている
修理を終えたばかりの建物
遠くからは白が強調して見えるようになっている
「お菊井戸」
私の前を歩いていた若い女性が真剣に何かを覗いている
気になり近寄ってみるとあの有名な「播州皿屋敷」の井戸らしい
『番町(ばんちょう)皿屋敷』と覚えていたので、最初は聞き違いだったのかと思っていたが……
日本各地に「いちまーい、にまーい……」の怪談話があるようだ
「明治時代の鯱」
制作者名などが刻まれている。別の場所には明治43年の刻印
「昭和時代の鯱」
「平成時代の鯱」
並べて展示されているのを見ると、明治の職人が造ったものが一番だ
「扇の勾配」
開いた扇の曲線に似ていることから「扇の勾配」と呼ばれる石垣
「井戸」
「西の丸」の方に移動してきた
「武者溜まり」
集団で軍事行動をする兵士を一時的に駐屯させる場所
撮影スポットの表示のあった場所から撮る
西の丸
ソーシャルディスタンスと聞いても爺には何のことか分からないが「間合いをとる」ならすぐ理解できる
ここが入り口となる
「百間廊下」 300mもあるという
「廊下の大戸」
建物内の扉とは思えない頑丈な造りの大戸
この扉の内側は女性が居住していた場所であったため、毎夜閉ざして厳しい守りをしていた
廊下に面して納戸のある小さな部屋が並んでいる
これが長局で西の丸御殿で働く女中の住んだ部屋とみられている
千姫は徳川家将軍・秀忠の長女、家康の孫娘である。7歳の時に豊臣秀頼(11歳)に嫁いだ
「大坂夏の陣」で秀頼と淀殿は自害して果てたが千姫は救い出された。18歳の時である
有力な公家や武家との関係を深めるために婚姻は大事な手段である。千姫はうってつけの「政治の駒」だった
相手は夏の陣で大功を立てた臣下 本田忠政の息子 忠刻
千姫の意志が強く働いた結果だったという
実は千姫、大坂から江戸に戻る道中を護衛していた忠刻に一目惚れしていた
西の丸の化粧櫓や曲輪は千姫夫婦のために新築された
城に移った翌年、待望の第一子となる長女、さらにまた翌年には嫡子となる長男が生まれた
愛する夫とかわいい我が子に囲まれる生活は長くは続かなかった
長男がわずか3歳で、忠刻も31歳の若さで亡くなってしまった
千姫は娘・勝姫と共に本多家を出て、江戸に移り住む
落飾(髪を落として仏門に入ること)し、天樹院(30歳)となった
西の丸から天守閣を眺める
駐車場に戻ろうとすると突然眼前に忍者が現れた
私の母方の姓は「伊賀」 天守閣をバックにポーズをとるように命じた(笑)
「官兵衛普請の石垣」
黒田官兵衛は私の好きな武将の一人
無骨な感じがする野面積みだが現存しているのが嬉しい
約3時間も滞在したにもかかわらず頭の整理ができていない
途中から、また来ようと諦めた
撮影 令和2年10月3日
世界遺産 姫路城 その2
城外に出た。正直な話し城内では何処を歩いているかも分からなかった
国宝の大天守は外から眺めると5階建てに見えるが、内部の造りは地上6階、地下1階の7階構成になっている
この場所は休憩用のベンチもありゆっくり眺めるには良い場所だ
石垣の形状を眺めながら下に下りて行く
石垣の積み方や加工は、羽柴氏時代は「野面積み」
池田氏時代は「打ち込み接ぎ」「算木積み」になっている
修理を終えたばかりの建物
遠くからは白が強調して見えるようになっている
「お菊井戸」
私の前を歩いていた若い女性が真剣に何かを覗いている
気になり近寄ってみるとあの有名な「播州皿屋敷」の井戸らしい
『番町(ばんちょう)皿屋敷』と覚えていたので、最初は聞き違いだったのかと思っていたが……
日本各地に「いちまーい、にまーい……」の怪談話があるようだ
「明治時代の鯱」
制作者名などが刻まれている。別の場所には明治43年の刻印
「昭和時代の鯱」
「平成時代の鯱」
並べて展示されているのを見ると、明治の職人が造ったものが一番だ
「扇の勾配」
開いた扇の曲線に似ていることから「扇の勾配」と呼ばれる石垣
「井戸」
「西の丸」の方に移動してきた
「武者溜まり」
集団で軍事行動をする兵士を一時的に駐屯させる場所
撮影スポットの表示のあった場所から撮る
西の丸
ソーシャルディスタンスと聞いても爺には何のことか分からないが「間合いをとる」ならすぐ理解できる
ここが入り口となる
「百間廊下」 300mもあるという
「廊下の大戸」
建物内の扉とは思えない頑丈な造りの大戸
この扉の内側は女性が居住していた場所であったため、毎夜閉ざして厳しい守りをしていた
廊下に面して納戸のある小さな部屋が並んでいる
これが長局で西の丸御殿で働く女中の住んだ部屋とみられている
千姫は徳川家将軍・秀忠の長女、家康の孫娘である。7歳の時に豊臣秀頼(11歳)に嫁いだ
「大坂夏の陣」で秀頼と淀殿は自害して果てたが千姫は救い出された。18歳の時である
有力な公家や武家との関係を深めるために婚姻は大事な手段である。千姫はうってつけの「政治の駒」だった
相手は夏の陣で大功を立てた臣下 本田忠政の息子 忠刻
千姫の意志が強く働いた結果だったという
実は千姫、大坂から江戸に戻る道中を護衛していた忠刻に一目惚れしていた
西の丸の化粧櫓や曲輪は千姫夫婦のために新築された
城に移った翌年、待望の第一子となる長女、さらにまた翌年には嫡子となる長男が生まれた
愛する夫とかわいい我が子に囲まれる生活は長くは続かなかった
長男がわずか3歳で、忠刻も31歳の若さで亡くなってしまった
千姫は娘・勝姫と共に本多家を出て、江戸に移り住む
落飾(髪を落として仏門に入ること)し、天樹院(30歳)となった
西の丸から天守閣を眺める
駐車場に戻ろうとすると突然眼前に忍者が現れた
私の母方の姓は「伊賀」 天守閣をバックにポーズをとるように命じた(笑)
「官兵衛普請の石垣」
黒田官兵衛は私の好きな武将の一人
無骨な感じがする野面積みだが現存しているのが嬉しい
約3時間も滞在したにもかかわらず頭の整理ができていない
途中から、また来ようと諦めた
撮影 令和2年10月3日
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