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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

岩谷山 心覚院 来迎寺(島根県浜田市松原町266)

2023年07月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月19日

岩谷山 心覚院 来迎寺
この日は昨夜からの雨が降り止まず観光は無理かなと思いながら道の駅で待機していた
9時過ぎに雨が止み、「最寄りの有名寺社」で検索し選択した寺である



重要文化財の「木造阿弥陀如来立像」の拝観が主な目的である



創建は大同3年(808年)当初は来迎寺と称した天台宗の寺院で亀山にあった
元和5年(1619年)亀山に浜田城が築かれる事になりこの地に移された
寛文3年(1663年)当時の浜田藩主松平康映が生母(心覚院)の菩提所に定めた事で心覚院と寺号を改め遍挙を招いて浄土宗に改宗開山した



松原湾を見下ろす閑寂なたたずまいの中に本堂や観音堂などが建っている



仏像拝観をお願いすると寺の歴史と仏像の説明なども丁寧にしていただいた



仏像を観るのが好きだが多くの寺院では撮影禁止なのが残念だと話すと
「自由に撮ってください」と言われた



木造阿弥陀如来立像(重要文化財)
漁師が沖に浮かぶ光を放つ箱を引き上げたところ、中からこの仏像が現れたと云い伝えられている
建長7年(1255年)6月18日の造営銘文があり「安阿弥(快慶)」風の立像である



ヒノキの一木造りで仏像彫刻としては岩見地方唯一の重要文化財として貴重な仏像である






台座は漆箔で彩色された八角形框座の踏割蓮華座で2つに分かれた蓮華上に片足ずつ踏み分けて立っている



脇侍仏
両脇侍(観音・勢至)菩薩像 文政年間(1820年頃)造立






住職から横から観る姿が美しいと















本堂仏像撮影後住職からお茶をご馳走になりしばらく歓談する
その時に観音堂の仏像を観ませんかと云われた



観音堂堂内の仏像
写真の仏像が「秘仏 聖観音菩薩」(33年に一度開帳)



























あまりにも興奮しすぎてピンボケ写真が多く掲載できなかった
この春の旅を通して記憶に残る寺院であった

撮影 令和5年5月19日
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稲佐の浜(島根県出雲市大社町杵築北稲佐)

2023年07月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年6月18日

稲佐の浜
出雲大社の西方1kmにある海岸で、国譲り、国引きの神話で知られる浜
出雲大社には数度訪れているが、稲佐の浜を訪れたのは初めてである



国譲り神話の舞台でもあり、古事記では「伊那佐之小濱」、日本書紀では「五十田狭の小汀」と記されている
この浜は旧暦10月10日に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもある



弁天島
かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていた
神仏習合の頃には「弁財天」が祀られていたが、明治のころから「豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)」が祀られている



弁天島の前にある砂浜の砂を袋に入れている人を見かけた
近くにいた若者に尋ねてみると、出雲大社の砂と交換すると御利益があると



この日の1時間ほど前に出雲大社で見たある光景を思い出した
自宅に戻り調べてみるとその勘は当たっていた
出雲大社の素鵞社で稲佐の浜の砂と「お清めの砂」として交換する由来は、古くからあったという



それには正式な手順があるようだ
① 稲佐の浜で砂を収集(お砂取り)
② 出雲大社での正式な参拝が必要
<勢溜・祓社・祓橋・手水舎・拝殿・八足門・十九社・素鵞社・神楽殿の順>



出雲大社素鵞社
素鵞社で参拝後に砂の交換ができる
③ 社を左側から回り込み、木箱に稲佐の浜の砂を入れる



④ 木箱から乾いた色の砂をいただく
  最後に、素鵞社の正面にまわり、一礼



私も御利益があるならと砂を袋にいれた記憶があるのだが……
御利益よりも加速する忘却のほうが深刻だ



ベンチに腰掛け神話の世界を想像しながら海を眺める



周辺の景色









撮影 令和5年6月18日
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出雲阿国の墓(島根県出雲市大社町杵築北)

2023年07月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年6月18日

歌舞伎の創始者 出雲阿国の墓
出雲大社から稲佐浜へ向かう途中にある
出雲の阿国は慶長8年(1603年)、京でかぶき踊りを演じ、歌舞伎をはじめた人物といわれている









石段を登っていくと中村家の墓があり、出雲阿国の墓は、特別に石棚で囲った平たい自然石で作られている



出雲国杵築中村の里の鍛冶 中村三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり
文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている



慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録がある
ヤヤコ踊りとは、ヤヤコ(幼女・少女)による小歌踊の芸能で 出雲の阿国が歌舞伎踊を創始する前に演じていたという
3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている



当時多くの芸能は、河原や寺社の境内などに作られた仮設の舞台で演じられ、興行が終わると舞台は取り壊された
しかし阿国は、京都の北野神社の境内に自分専用の舞台を作って踊ったといわれている
北野天満宮の祠官松梅院の僧禅昌は、阿国の芸と人物に対する最も理解のある有力な庇護者であった



慶長8年(1603年)5月6日に女院御所で踊ったという記録がある
文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている



阿国役を演じた女優には大原麗子、多岐川裕美、内田理名、菊川怜、森田望智などがいる
これだけでも自分のなかでは阿国という女性が魅力的な女性であったことが想像できる



慶長12年(1607年)に江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた
出雲に戻り尼になったという伝承もある
京都大徳寺の三玄院にも同様に阿国のものといわれる墓があり、夫の名古屋山三の墓と共に供養されている



撮影 令和5年6月18日
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出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東195)

2023年07月08日 | 神社・仏閣
訪問日令和5年6月18日

出雲大社
創建は神代 出雲国一宮 

松の参道
出雲古代歴史博物館から100m程歩くと松の参道に出る
中央にあるこの道は神様の通る道なので通行することはできない



参拝者は左右にある参道を進むことになる



ムスビの御神像



大国主神は海の彼方から光が飛んで来るのに遭遇する
その光が御身に宿る幸魂・奇魂であることに気づき、その御霊に生かされているという自覚を得る



大国主神が、幸魂・奇魂のお蔭を頂いて神性を養われ『ムスビの大神』になられたという意味を象徴している像である






境内案内図



銅鳥居(重要文化財)
寛文6年(1666年)長州藩 第3代藩主 毛利綱広の寄進



拝殿
通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われる
周囲から「注連縄が思ったより小さい」という声が耳に入ってきた……



八足門(重要文化財)
本殿により近いこともあり、参拝者の数も多い場所
蛙股の「瑞獣」や「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる



八足門前にある大きな3つの円に注目



出雲古代歴史博物館と出雲大社宝物館に展示されている「宇豆柱」がこの場所から出土した
<宇豆柱とは出雲大社本殿遺構の棟を支えていた柱材>



巨大な3本の木を束ねて1本の柱にしている



左側から回ってみる



本殿の屋根が見える



神楽殿
人気の大注連縄は神楽殿に張られている
私の後ろにはカメラを構えて待っている人が沢山いるという状況(汗)
長さ約13メートル、重さ5.2トン



神社神道では、神様に向かって右方を上位、左方を下位とし、一般的に神社では上位の右方が綯い始めで、左方を綯い終りとする張り方となっている
しかし出雲大社では古来、他の神社とは反対に神様に向かって左方を上位、右方を下位としている



本殿内には、客座五神として「天之御中主神・高御産巣立日神・神産巣立日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神」の五柱の神が祀られている
尊貴第一の神たる「天之御中主神」が上位となる一番左に祀られている
注連縄を張る際には上位である左方が綯い始めで、右方を綯い終りとする張り方となっている



この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられる



末社 西十九社(重要文化財)



神在祭の間(旧暦10/11~17)、集われた全国各地の神々の宿所となる社



摂社 氏社 2棟(重要文化財)



本殿(国宝)
祭神:大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
江戸時代 延享元年(1744年)の造営



祭神が一番近い場所にあり、構造上、正面からお参りできるため参拝者が絶えない



彰古館(国登録有形文化財)






本殿を真後ろから拝観できる



足もとには可愛い白ウサギが置かれている
ウサギとのツーショットをSNSで発信している女性が多かった



摂社 素鵞社(重要文化財)
祭神:素戔嗚尊(すさのおのみこと)



大国主大神の親神ということで本殿より一段高い場所にある
これまで参拝者が列をなすということはなかった



社の真後ろにある磐座から霊気を感じ取ろうとしている男性



いつもと違うのはこの社殿の下に人が頭を突っ込み砂を袋に入れていることだ



何をしているのかこの時は分からなかった……



末社 釜社(重要文化財)






東十九社(重要文化財)



観光バスも動き出しコロナ前の日常に戻りつつある



神話「因幡の素兎(しろうさぎ)」



撮影 令和5年6月18日
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島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市大社町杵築東 99 番地 4)

2023年07月07日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和5年6月18日

島根県立古代出雲歴史博物館
出雲を旅すると必ず訪れる場所がこの博物館(出雲大社の隣にある)
主に出雲大社を中心とした古代出雲についての展示を行っている
常設展示室では写真撮影が許されているため何度も訪れている



出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱(重要文化財)



平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見された
これは、そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱で、古くから「宇豆柱(うづばしら)」と呼ばれてきたもの



直径が最大で約6mもある柱穴には、大きな石がぎっしりと積み込まれ、掘立柱の地下構造も明らかになった
その後の調査などから、この柱は、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなった



日本書紀
奈良時代(720年)成立
江戸時代(17世紀)刊行



古事記(真福寺本)
奈良時代(721年)成立
昭和20年(1945年)影印刷



訂正出雲風土記
千家俊信 著 江戸時代 文化3年(1806年)刊 



古代の神像と絵馬
青木遺跡出土品 奈良~平安時代(8~10世紀頃)

神像



絵馬(複製)



出雲大社復元設計(模型)
平安時代の出雲大社本殿1/10模型



復元設計にあたっての発掘成果の基本データにより各学者が復元したもの






巨大本殿の頃を描いた絵図<鎌倉時代(13~14世紀)>



出雲大社境内模型(慶長期)
 江戸時代 慶長14年(1609年)



出雲大社境内模型(寛文期)
 江戸時代 寛文7年(1667年)



現在の本殿や境内の景観とよく似ている



やはり平安時代のこの神殿には夢がある
平安時代中期に編纂された児童向けの学習教養書『口遊』(くちずさみ)に「雲太、和二、京三」とある
雲太謂出雲国城築明神神殿 和二謂大和国東大寺大仏殿 京三謂大極殿、八省



これは、当時の大建築の順位を表したのだという
1位は出雲大社 2位は東大寺 3位は京都御所、大極殿



笑っていない大黒さん



荒神谷遺跡より出土した銅剣358本・銅矛16本、銅鐸6個(国宝)









このようにまとめて発掘された



加茂岩倉遺跡出土銅鐸(国宝)



イノシシ・シカ・トンボが描かれた銅鐸






釣り手の中央に「×」が見える



顔が描かれた銅鐸









ウミガメが描かれた銅鐸



卑弥呼の鏡か



「景初三年」銘三角縁神獣鏡(神原神社古墳)(重要文化財)









撮影 令和5年6月18日
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八重垣神社(島根県松江市佐草町227)

2023年07月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月17日

八重垣神社
日本神話に登場する「ヤマタノオロチ」を退治した素戔嗚尊とその妻になった櫛稲田姫縁の神社である

鳥居
訪れてみたい神社の一つでもあり、楽しみにしていた



額には「八重垣神社」



手水舎



随神像
参拝者が多かったため随神門を撮るのを忘れていた






狛犬
歴史を感じる狛犬






由緒
古事記や日本書紀に出てくる神話の舞台である
文字を読んでいるだけでわくわくしてくる



拝殿
素戔嗚尊は天より降って出雲の國の簸の川上に到った。その時、川上で泣き声が聞こえた。
そこで声の方を尋ねると、老夫婦がきれいな少女を間にして泣いていた。
老夫婦は脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)といい、少女は二人の娘で奇稲田姫(くしいなだひめ)といった。



素戔嗚尊は泣いていた理由を尋ねた。
老夫婦にはもともと八人の娘がいたが、毎年一人ずつ八岐大蛇という怪物に食べられてしまい、末娘の奇稲田姫だけになってしまった。
そして残った奇稲田姫ももうじき食べられてしまうので、悲しくて泣いていたのだという。



素戔嗚尊は、「八岐大蛇を退治する代わりに奇稲田姫を嫁に欲しい」と申し出た。
老夫婦は喜んでその申し出を承諾した。すると素戔嗚尊は奇稲田姫の体に触れ、たちどころに湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の形に変えてしまった。
素戔嗚尊は湯津爪櫛になった少女を御髻(みづら)に挿し、脚摩乳と手摩乳に八回醸した酒を作らせ、八面に塀を立て、各々一つずつ樽を置き、酒を盛らして待った。



時が過ぎ八岐大蛇が現れた。頭と尾はそれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯のようであった。
松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた。
大蛇は酒を飲もうとして、頭を各1つの樽に入れて飲み、酔って眠ってしまった。
そこで素戔嗚尊は十握剣(とつかのつるぎ)を拔いて、ずたずたに八岐大蛇を斬った。
尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割り裂いて見ると、中にひとふりの剣があった。
これがいわゆる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」である



本殿
そうした後に、湯津爪櫛になった奇稲田姫とともに結婚の地を探して、出雲の淸地(すが)を訪れ、宮を建てた。
そして「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。

祭神:素盞嗚尊と櫛稲田姫



山神神社



貴布禰神社



手摩乳神社
稲田姫命の母親



八重垣御神水



石碑
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」



小泉八雲もこれから向かう「鏡の池」に興味を示しているとある



鏡の池



ただの小さな池だが、その由緒を知ると違った感覚になる



占い紙に硬貨をのせ浮かべ早く沈むと良縁が早く遅く沈むと縁が遅いという
占ったこの人はこの先どうなったのか……



天鏡神社
鏡の池の直ぐ上にある神社






占いの紙が近くで沈むと身近な人と遠くで沈むと遠方の人と結ばれるという
占いなど信じていないが面白くてしばらく眺めていた



「神秘 夫婦杉 子宝椿」



境内に戻る



祭神の素盞嗚尊は伊奘諾尊と伊奘冉尊の子
父神から追放され,高天原に姉の天照大神をたずね乱行をかさねたので,姉は怒って天岩戸にかくれた
神話の世界だが考えるだけで楽しくなる



宝物収蔵庫
重要文化財の「板絵著色神像」が展示されている



撮影禁止なので案内板の写真になる



「神秘 夫婦杉 連理玉椿」



資生堂の花椿会はこの木からきているとは知らなかった






撮影 令和5年6月17日
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熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451番)

2023年07月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月17日

熊野大社
「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」というYouTuberの動画で熊野大社の存在を知り訪れた
山の奥深い場所にあるが、平日でも参拝者も多いのには驚いた



火の発祥の神社として「日本火出初之社」とも呼ばれ、出雲大社と共に「出雲国一宮」である



さざれ石



鳥居



初めての場所は見逃しのないように注意深く歩くようにしている



神橋



鳥居



手水舎



境内図
後に写真を整理し発信する際には、この境内図は大変役に立つ



狛犬






随神門
明治19年(1886)昭和3年(1928)に改築された



大きな注連縄が張られている









「夫婦和合 連理の榊」



石碑には日本の和歌の最初の歌 
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
作者は戔嗚尊(スサノオノミコト)<熊野大社の祭神>



拝殿
『出雲國風土記』(733年)に熊野大社、『延喜式神名帳』(927年)に熊野坐神社と見え、日本火出初神社とも称され、
古来杵築大社(出雲大社)と並びて出雲の國の大社と遇されたとある



現在の拝殿は昭和53年(1978年)に建てられたもの






出雲大社の注連縄(左方が綯い始め)と同じように張られている



拝殿内部



舞殿
現在建っている舞殿は、もともとは拝殿として利用されていた
昭和53年(1978年)に造宮が行われた時に、舞殿として移しかえられた



舞殿では神楽や舞いが奉納されたり節分などでは豆まきが行われる



奉納額









拝殿側に目を向ける



稲田神社









伊邪那美神社









本殿
伊邪那美神社側から本殿の姿を観ることができた
現在の社殿は昭和53年(1978年)に幣殿と拝殿を増築して完成した



祭神:加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみ くしみけぬのみこと)
  <素戔嗚尊の別名>



原始は現在の「天狗山」の山頂付近にある 巨大な岩(磐座)があり、そこに祭祀されていた
その地は「元宮ヶ成(げんぐがなり)」と 呼ばれている



荒神社









稲荷神社









鑽火殿
大正4年(1915年)造営












社務所



創建は(伝)神代であるが、社殿は比較的新しく歴史的な価値は少ない
しかしながら出雲大社と並ぶ出雲国一宮の雰囲気を感じ取ることができる









また訪れてみたいと思った神社である



撮影 令和5年6月17日
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平濱八幡宮・武内神社(島根県松江市八幡町303)

2023年07月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月17日

平濱八幡宮・武内神社
この日の朝に訪問予定地を検索していたところ「武内神社」の名を発見した
武内宿禰に興味があったので目的地に決定した
急な坂の上に駐車場があった

鳥居
鳥居の額には「武内神社」とあったので、この時は何も考えず先に進んだ



神門



手水舎



神門
手水舎の前に神門があり、平濱八幡宮と武内神社の参道が交差している場所とは全く知らなかった
というより、平濱八幡宮の存在さえこの時は知らなかった
*現在でも整理ができていない



狛犬






平濱八幡宮 拝殿
笑い話のようだがここが武内神社だと思って写真を撮っている



額には「平濱八幡宮」とあるので普通ならこのあたりで気付くのだが疑いもなく通り過ぎる
文字は松江市出身、第25代内閣総理大臣 若槻 禮次郎謹書



拝殿内部









由緒も武内神社だけ読んでいた記憶があり、この時点でも武内神社と思い込んでいる






本殿
創建年代は不詳であるが、天永2年(1111年)、陰陽寮で当社の遷宮の日時を占ったという記録があり、それ以前の創建となる
出雲国最古の八幡宮
主祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后



本殿裏の奉納額



巨大な奉納額で本殿の後ろの壁が覆われているようだ






狛犬






境内社 加和羅神社(十二社権現)



御神輿舎



境内社 鹿島神社



「幸の神」



境内社 若宮神社






境内社 武内神社本殿
祭神:武内宿禰命
   武内宿禰命は五代の天皇に仕え、わが国初の大臣として国政に深く関与した






武内神社 拝殿



彫刻が素晴らしい



額の「武内神社」を見て混乱した
これまで武内神社だと思っていた社殿は何だったのか……
この後、同じ場所をもう一度回ってみた



拝殿内部



右が平濱八幡宮拝殿・本殿、左に武内神社拝殿



社務所






やるき達磨
冷頭静修(頭を冷やし静かに学ぶ)



体型は似ているが精神が伴わない私である(笑)



「人も車も無事かえる」



旅行者にとっては心に響く言葉である



撮影 令和5年6月17日
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会見山 安養寺(鳥取県米子市福市724)

2023年07月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月17日

会見山 安養寺
時宗の寺院
創建は南北朝時代に後醍醐天皇皇女瓊子内親王が開基したのが始まりと伝えられてる



ここには「瓊子(たまこ)内親王」の御廟がある



後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の計画が露呈した事で捕縛され隠岐に流されることになった
内親王も変装して随行したが、渡航の直前に身分が知られ隠岐に渡ることが許されなかった
内親王は隠岐に近いこの地に留まり遊行五代安国上人の弟子となる
16歳の時に尼(西月院宮安養尼)となり後醍醐天皇の勅願寺として安養寺を開基した



この時代の歴史については「鎌倉殿の13人」で興味を持っていた
大河ドラマでは後醍醐天皇は悪役になっていたが「瓊子内親王」の話しはなかった



ここは初めて訪れる寺で、この石段の上にはどのような景色があるのだろうか




初めての場所ではできるだけ見逃すことのないように注意深く歩くようにしている
今回は左回りで進んだ



稲荷神社
額には「正一位稲荷大明神」とある



厳しい環境等に曝され頭部が破損している狛犬



稲荷神社なので狐と思われるが……



この祠の名は分からなかった






後醍醐天皇社
後醍醐天皇は、第96代天皇および南朝初代天皇
両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握ることができなかった
鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、後醍醐天皇は倒幕運動を行ったが失敗
元弘2年(1332年)隠岐に配流された



狛犬






額には「後醍醐天皇社」



「正中の変」「元弘の乱」「建武の新政」「建武の乱」「南北朝の内乱」など日本の歴史を動かした天皇である



南北朝の内乱で劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日 義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した
陵は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の「如意輪寺内にある塔尾陵」に治定されている






鐘楼






梵鐘には安養寺の由緒らしきものが刻まれていた



本堂
本尊:阿弥陀如来



額には寺号の「安養寺」






石碑



後醍醐天皇皇女 瓊子内親王墓<宮内庁>



暦応2年・延元4年(1339年)8月1日死去 24歳
法号は安養尼



偶然だと思うが後醍醐天皇崩御の2週間前に死去している






安養寺はその後も尼寺として存続した
江戸時代には寺領100石が安堵され境内では芝居興行や富くじが行われるなど盛況だったという









父親思いの娘の話を知りこの寺を訪れたが、その思いが伝わってきたような感じがした



撮影 令和5年6月17日
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鳥取東照宮<旧 樗谿神社>(鳥取県鳥取市上町87)

2023年07月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月16日

鳥取東照宮<旧 樗谿神社>
江戸時代 慶安3年(1650年)の創建
創建より因幡東照宮と称され、明治7年(1874年)から平成23年(2011年)までは樗谿(おうちだに)神社と称されていた



鳥取藩初代藩主池田光仲によって造営された
光仲はわずか3歳で藩主となり、藩主となって16年目の慶安元年12月(1649年)に初のお国入りを果たした
藩主としての威厳を示すため、鳥取城下への東照宮勧進を願い出て許可された






近くにある樗谿公園は梅林、遊歩道、芝生公園が整備され、奥には周囲の緑を映す大宮池があり、憩いの場として知られている



随神門
東照宮のイメージとは異なる簡素な建物だ



気象条件等もあり、偶々なのかも知れないがこれは酷すぎる



拝殿まで少し距離があることもあり、この場所から手を合わせる人を何人か見かけた



手水舎



随神門を背に進むと石段の上に拝殿が見えてくる



拝殿(重要文化財)



桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、こけら葺



東照宮の社殿というと豪華絢爛なイメージがあるが、ここは簡素で上品な感じがとてもいい



本殿(重要文化財)
桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺



祭神:主神として東照大権現
   配神として池田忠継・忠雄・光仲・慶徳を合祀



池田光仲の父・忠雄の生母は徳川家康の次女・督姫で、光仲自身は家康の曾孫となる
光仲が曾祖父・家康を追慕しての東照宮勧進でもあった
かつては豊臣系大名の雄として知られた池田家が幕府への恭順の意を示すための勧進でもあった



本殿扉上の桁には「鷹」の彫刻があり、左甚五郎の作と伝わる






本殿側から見た拝殿



東照宮の彩色を感じる唯一の部分のような気がする



神輿舎






撮影 令和5年5月16日
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