訪問日 令和5年5月20日
赤間神宮
初めて訪れたときには歴史的背景も理解していなかった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に興味を持ち、この時代の本なども購入しての再訪である

水天門及び回廊(国登録有形文化財)
壇ノ浦を望む竜宮造の楼門
屋根の大棟両端に鴟尾(しび)を飾り、門の両脇に回廊が延びる
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる

由緒

太鼓楼


獅子

父獅子

母獅子

外拝殿

外拝殿側から水天門を観る
水天門の奥の海は関門海峡(壇ノ浦)である

勅額


内拝殿

貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開かれた
文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水
建久2年(1191年)赤間関(下関)に、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた

明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称
明治8年(1875年)天皇社は赤間宮に改称
昭和15年(1940年)8月1日、赤間宮は赤間神宮に改称
第二次世界大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工した

八咫鏡 奉鎮
天照大御神の「御神体」としての「八咫鏡」は伊勢神宮の内宮に奉安されている
赤間神宮には御神体として、壇之浦の戦いの際に安徳天皇とともにあった八咫鏡が安置されている
この八咫鏡は、岡山県の郷土史研究家・春名義雄により、昭和33年(1958年)に、同県作東町(現・美作市)で発見されたもの
発見された場所は「天皇谷」という地で、古くは天皇社が建てられていた
平家の家臣であった妹尾兼康の一族の者が、壇之浦の戦いの際に八咫鏡を海から拾い上げ、当地に落ち延びたためだと言われている


日本西門鎮守八幡宮



耳なし芳一堂

子供の頃読んだ本というのは記憶に残っているものだ
この像の前に立つと不気味な感覚が蘇ってくる


この芳一像は(防府市出身)押田政夫氏の作品で昭和32年に奉納された

平家一門之墓(七盛塚)

壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門(14名)の合祀墓(供養塔)
名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する


耳なし芳一の伝説地としても殊に有名である


高浜虚子句碑

宝物殿
この笛は複製だがこの物語は有名で感動的だ
熊谷直実はその後、法然上人の弟子になり誕生寺を開山(岡山県久米郡久米南町)

安徳天皇像

安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)
安徳天皇は、第81代天皇
高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の徳子
治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子
治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位

寿永4年(1185年)4月、壇ノ浦の戦いで平家一門は滅亡に至る
この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した

『平家物語』では二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける
二位尼は「この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる
「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた

雲間の中から青空も見えてきた

郵便ポストの上に「せきまる」が置かれている
フグやクジラをモチーフとした下関市のメインキャラクター

平家物語や吾妻鏡に目を通すだけでも社殿や平家一門の墓、阿弥陀寺陵の見方が変わってくるから面白い

駐車場から鳥居を眺める

下関市と北九州市門司区の間の関門海峡を跨ぐ関門橋(高速道路)
高所恐怖症に加え強風に煽られた恐怖体験から、今回も関門トンネルを利用する

撮影 令和5年5月20日
赤間神宮
初めて訪れたときには歴史的背景も理解していなかった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に興味を持ち、この時代の本なども購入しての再訪である

水天門及び回廊(国登録有形文化財)
壇ノ浦を望む竜宮造の楼門
屋根の大棟両端に鴟尾(しび)を飾り、門の両脇に回廊が延びる
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる

由緒

太鼓楼


獅子

父獅子

母獅子

外拝殿

外拝殿側から水天門を観る
水天門の奥の海は関門海峡(壇ノ浦)である

勅額


内拝殿

貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開かれた
文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水
建久2年(1191年)赤間関(下関)に、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた

明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称
明治8年(1875年)天皇社は赤間宮に改称
昭和15年(1940年)8月1日、赤間宮は赤間神宮に改称
第二次世界大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工した

八咫鏡 奉鎮
天照大御神の「御神体」としての「八咫鏡」は伊勢神宮の内宮に奉安されている
赤間神宮には御神体として、壇之浦の戦いの際に安徳天皇とともにあった八咫鏡が安置されている
この八咫鏡は、岡山県の郷土史研究家・春名義雄により、昭和33年(1958年)に、同県作東町(現・美作市)で発見されたもの
発見された場所は「天皇谷」という地で、古くは天皇社が建てられていた
平家の家臣であった妹尾兼康の一族の者が、壇之浦の戦いの際に八咫鏡を海から拾い上げ、当地に落ち延びたためだと言われている


日本西門鎮守八幡宮



耳なし芳一堂

子供の頃読んだ本というのは記憶に残っているものだ
この像の前に立つと不気味な感覚が蘇ってくる


この芳一像は(防府市出身)押田政夫氏の作品で昭和32年に奉納された

平家一門之墓(七盛塚)

壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門(14名)の合祀墓(供養塔)
名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する


耳なし芳一の伝説地としても殊に有名である


高浜虚子句碑

宝物殿
この笛は複製だがこの物語は有名で感動的だ
熊谷直実はその後、法然上人の弟子になり誕生寺を開山(岡山県久米郡久米南町)

安徳天皇像

安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)
安徳天皇は、第81代天皇
高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の徳子
治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子
治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位

寿永4年(1185年)4月、壇ノ浦の戦いで平家一門は滅亡に至る
この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した

『平家物語』では二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける
二位尼は「この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる
「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた

雲間の中から青空も見えてきた

郵便ポストの上に「せきまる」が置かれている
フグやクジラをモチーフとした下関市のメインキャラクター

平家物語や吾妻鏡に目を通すだけでも社殿や平家一門の墓、阿弥陀寺陵の見方が変わってくるから面白い

駐車場から鳥居を眺める

下関市と北九州市門司区の間の関門海峡を跨ぐ関門橋(高速道路)
高所恐怖症に加え強風に煽られた恐怖体験から、今回も関門トンネルを利用する

撮影 令和5年5月20日