日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

中学生がインタビュ一に

2007-03-20 14:58:44 | Weblog
平成19年3月20日の14時に、「小児科医の実際の仕事の内容」を知りたいとのことで、又、それを今後の進路の参考にしたいとのことで、とても賢そうな顔をした、礼儀正しい地元龍ケ岳中学1年生の男女二人が来た。
 で、インタビューの前に、以下の資料を作成してあげた。

「小児科医の仕事」、平成19年3月20日(火)の龍ケ岳中学生への資料

 日本の医師は、高校卒業後、医学部6年間後に、医師国家試験を受けて医師になれるが、まだ、一人前でなく、2年間、いろんな科の研修を積んで、やっと一人前の医師になれる。科を選ぶには、2年間の研修後にすることが多い。科は、自分で決める。時間外が多い科や外科系や麻酔科や訴訟の多い科などは、避ける傾向にある。
 日本の医師の殆どは、当直翌日も、仕事をする。入院の患者さんが悪い時は、深夜でも、診察する場合が多い。
 小児科医と産科医の勤務医が、全国的に不足している。少ない原因の一つに、共に、深夜忙しいことがあげられる。当院では、昨年の8月から、小児科医二人体制で、時間を決めて救急医療を毎日(祝日も、年末年始も)している。上天草総合病院での小児科医の仕事は、外来診察(1日平均20~30名)、入院診察(1カ月に、20名~30名)、年100例の新生児管理、年に1000名以上の時間外診察。乳児健診、1歳半健診、3歳児健診、就学前健診、保育園の春秋健診、予防接種、マラソン前健診、小学校の学校検診、中学校の学校検診など、院外で年間35回もあり。それに、院内で、毎週、乳児健診と予防接種をしている。
 看護学校講義(小児科の講義を年に100分を20回、産科の新生児を2回、国家試験前に2回、統計学を6回)があり、講演依頼もあり(アロマなどで)、二人の医師で分担している。
 入院があると、入院時に書くことが多く、退院の時も、多い。毎朝、毎夕、必ず、診察し、カルテに記載。指示も、小児科は、直ぐに変わるので、しばしば記載。退院時には、入院のまとめを丁寧に記載している。
 小児科の特徴は、小児を診る以外に、親御さんの説明が大変で、親の協力がないと、いい医療が出来ない。全く子どもを見ていなくて、来院されるのが一番困る。3歳未満は、小児科医が診ても、それなりに難しい。しかし、小児科医は、年齢が小さければ小さいほど、その見方は、得意である。小児科医の診断的中率は、非常に高い。
 小児科医の仕事は、とても生き甲斐のある科であり、子どもの嫌いな人には、向かない。体力・気力・継続力が要求される。
コメント (1)
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為になるかも知れない本(その40)

2007-03-20 07:56:22 | Weblog
○専門1年、6月1日(日)曇。
 法医解剖を初めて見た。赤ん坊だった。それを見て気分が悪くなるということはなかったが、無惨に解剖されている感じがして、かわいそうだった。自分の身内や知っている人だったら、見ることが出来ないだろう。
○専門1年、6月4日(日)曇。
 生化学ばっかり勉強している。勉強のし過ぎで、首が凝っている。鼻血も出た。目が充血している。気分転換に天文館に出た。自分の大好きな(ポンポン菓子とギョーザが昔から大好き)特大のギョーザを食べた。金魚5匹をもらった。途中でクラスの○○譲を見かけたが、見て見ぬ振りをして通り過ぎた。好きな娘だったら、飛んで行ってこの金魚を勇んでやるのに。ギョーザを食べている時、隣に座った女の娘がとてもかわいい感じの娘だった。しかし、話し掛けることが出来なかった。俺には、そんな才能はないもんね。仕方ない。
○専門1年、6月10日(土)晴。
 熱が39度2分あるのに学校に行った。生化学の実習は、さぼれないのだ。
○専門1年、6月12日(月)雨。
 熱があったのが嘘の様だ。だが、ちょっぴりフラフラしていた。早く実力のあるいい医者にならなければいけない、早く医学を修得したい、・・・いつもそう思っている。今日は、死体十体(前の学年の人が解剖したもの)を見て筋学の勉強をした。ホルマリンの匂いが臭くて、目が痛くてたまらなかった。指導教官が少ないのは問題だ。
○専門1年、6月17日(土)雨。
 組織学対策委員会(解剖2の試験の為)から、「傾向と対策」をもらった。生化学の授業の後、細見の所に行ってすきやきをごちそうになり、一緒に歌を歌った(細見がギターを弾いて)。彼は、青春を満喫している感じだ。
○専門1年、6月22日(木)雨。
 発生学の集中講義があった。熊大の藤本教授で、熊大では、解剖3まであるとは、驚いた。
○専門1年、6月29日(木)晴。
 生化学の実習の時間、稲益助教授と萩原講師から呼び出しがあり、「夏休みに生化学の教室に来て手伝わないか、二人やる気のある人が欲しい」と言われた。光栄。だけど、今の自分の実力では生化学の先生に申し訳ないが・・・。
○専門1年、7月11日(火)晴。
 いい日だった。解剖2の試験があった(82点だった)。実習の試験は、25問、顕微鏡を見て、1分間で、臓器名を当てて書いて行かなければいけなかった。自信を持って言えるのは、15問だけ(結果は、80点)。井口がノートを実に上手にとっていた。2学期からは、彼を見習わなければ。
○専門1年、7月29日(土)晴。
 衛生学、公衆衛生学、医動物学、生化学、小さな本を一応読み上げた。今週は、メチャクチャ頑張って習っていない学科の勉強までした。これだ。
 午後から天文館に行って、例の所で150円程ギョーザを食べ、その後、200円の温泉の風呂に入りに行った(次兄推薦)。俺って、ブルジョアかなあ・・・。次郎物語を読み上げた。
○専門1年、8月4日(金)晴。
 映画デーって感じの日だった。朝、申し訳程度に、臨床生理学の内分泌を勉強してから、高島屋であった「人間の条件」の映画を、朝の11時30分から、翌朝の9時40分まで掛かって全て見た。人間の条件と次郎物語の長大作を終了しただけでも、この夏休みの価値はあったかな。

*夏休みに入ると、1週間の内の5日間を医学部図書館で朝の9時から夜の8時まで必死になって勉強した(厚い基礎医学書を最後まで読み上げることに専念した)。8月7日~9月2日まで、生化学教室(午前中は、生化学教室、午後は、医学部図書室)に通った。そこでは、自分の部屋と対照的に冷房完備で、実に快適であった。

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為になるかも知れない本(その39)

2007-03-20 07:54:24 | Weblog
 解剖には、系統解剖、病理解剖、法医解剖とある。又、系統解剖学にも、ミクロの解剖(電子顕微鏡レベルの解剖学や、組織学など)とマクロの解剖(系統解剖など)、更には、発生学とある。

 系統解剖の実習に入る前に、金沢大学の解剖学教授の山田致知先生の書かれたエッセイ「解剖学実習の心得」を渡され、しっかりと読んでおくように言われた。以下は、その内容のほんの一部である。
 
 解剖学実習の心得
          金沢大学教授 山田致知
 解剖学実習は、学生諸君が一生かけて取り組もうとする”人体”との劇的な出会いの場面であり、諸君が生まれて初めて経験する系統的な最大規模の探求事業となる。解剖学実習では、人体構造の知識を得る以外にも、判断力や処理能力を高めることが要求されるし、更に生命の尊厳や医学の倫理についても自分自身の考えを練る必要がある。それだけに、そして人体を解剖するという特殊性の故に、指導の責任と学生の規律とが特に重要視されなければならなくなる。

 死体に対する態度
 総ての死体解剖は、昭和24年制定の”死体解剖保存法”という法律に基づいて行われる。その第20条は、死体の取扱いに当たって特に礼意を失わないように注意しなければならないことを定めている。
 法律は、総ての解剖に遺族の同意が必要であるとしている。いいかえると、我々は遺族の理解と協力によって”解剖させてもらえる”のであった、決して特権によって解剖できるのではない。大体、解剖することを特権だなどという考え自体が思想的に少々おかしいのではないだろうか。諸君は、実習体確保のためにどんな努力が払われ、関係者がどんなに苦慮しているかを知らないし、また知ろうともしないから、自分達のようなエリートには死体の方が集まってくるような錯覚に陥り易い。実習体確保という問題は、実習を担当する教室だけでどうこうする筋の問題でもなく、またできる問題でもない。それは医学の向上発達という大目的を達成する為に、医学関係者総員が節度を正して当たらなければならないことである。
 兎に角、諸君が今日実習を開始できるのは、文字通り慈悲の固まりのような故人および遺族の善意の御蔭によるものである。もしもこの明白な因果が理解できない者がいたら、冷静に次のことを自問して見るがよい・・・君の両親が死亡した時、自分はかって一体の死体を解剖したからその恩返しにと肉親の遺体を実習の為に提供できるか、後述のような解剖体収集のキャンペ一ンに応えて諸君自身の肉体を実習用にと遺言することができるか、その際に、反対する身内の者を納得ゆくように説得できるか。而も法律は、学生の解剖を無条件に認めているのではない。学生は、全く解剖学担当教授または助教授の責任において解剖することができるのである。
 解剖実習は医学専門課程のハイライトだといわれているが、それは医学を志す者が必ず通過しなければならない一つの難関であって、将来人命を預かる者が実際に人体に引き合わされる最初の機会でもある。我々が如何に無力であり無能であるかを先ず思い知らされ、ついで、我々のフシ孔のような観察力と型にはまった頭の働きによって一体何ができるかという能力検定の機会となるのが、解剖学実習である。
 解剖とする対象は死体である。だからこれは人体解剖学ではなくて、死体解剖学”であるなどと反抗期的理論を宣伝する者があるのは困ったものである。成程と思う者が沢山あるであろうが、それは死んでいるのは実は彼の頭であると自白しているようなものである。死体の所見であっても、見る人の立場によっては、生き生きと躍動することを彼は気づかないのである。 学問の真髄はどの分科でも同じであるから、解剖学実習を実りあるものとして完遂できない者は、恐らく臨床医としての野心なども抱かないがよいだろう。要するに、死体は”聖書”であり、”活師”のなのである。
 我々は初回に全員そろって黙祷をささげ、以後は各組ごとに礼拝、最終回には花束を手向けて冥福を祈り、感謝をこめて別れを告げるのが習わしである。
 ”死体を他人の遺体だと思うな。肉親を解剖する積もりになって、こうするのが当然だと思うように、絶えず自問しながら行動せよ。”


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為になるかも知れない本(その38)

2007-03-19 09:54:56 | Weblog
○専門1年、4月10日(月)晴。(昭和47年1972年)
 今日から専門の授業が始まった。緊張していた・・・。
○専門1年、4月12日(水)晴。
 5時過ぎに起きた。今日の授業は、まあまあの出来。今までで一番よく理解できた。解剖2の予習がしたいが、本がない。
○専門1年、4月15日(土)雨。
 生化学ばかりの日。予習しないとわからない。リン脂質の所が理解できなかった。
○専門1年、4月20日(木)雨。
 いい日だった。予習したせいか、中川先生の生化学は、よく理解できた。解剖2の本がないので困っている。お金3万(家からの毎月の仕送りの金額)がまだ来ない。
○専門1年、4月21日(金)曇。
 今日の生理1は、全く駄目だった。予習をしなかったからだ。クラス会があった。どんな医者になりたいかと聞かれたので、「勉強して、実力のある医者になって誤診をなくしたい・・・」と言った。皆、どんな風にとったかなあ?3万円のお金、いつ来るのかなあ。
○専門1年、4月23日(日)曇。
 ガックリ、計画表通りにはちっとも行かず、勉強は更に悪化。心細くなって来た。
○専門1年、4月29日(土)曇。
 一日中、勉強したつもりであったが、殆ど進んでいない。天皇さんは、71歳になったとか。○○レストランでカレーを食べていたら、そこの女の娘が、「理想の人は、めがねを掛けていなくて、背が高くて・・・」と条件を言っていた。今時の女はなっとらん、そうつくづく思ったぞえ。俺の価値が分かる女と結婚したいなあ。
○専門1年、5月1日(月)曇。
 午後3時頃(この日は、授業がなかった)に解剖学教室に行ったら、何と10人以上の人がもくもくと実習していた。皆、一生懸命に勉強してるんだなあと思った。今日もあまり進まなかったが、予習をしっかりした上で、実物を現に見て勉強すると実に楽しいことを再確認した。
○専門1年、5月14日(日)曇。
 朝、2時に起きて勉強した。ラテン語を復習した。何となくラテン語で骨の名前を覚えるのが気軽に出来る感じになった。今、6時15分、あまり進んでいないが、無駄はなかった感じだ。骨学の勉強、明日までにはほぼ完全に終わりたい。便所にラテン語で骨名を書いて、いつも見ることにした。
○専門1年、5月21日(日)晴。
 出来た。「雑草」の文集が出来た(5月11日に、クラスで、自分が文集委員長に選ばれていた)。この創造の喜びは、何にも換えられぬもんだ。嬉しい。飛び上がっても、まだまだ足りない位だ。成せば成るということをここでも悟った。しかし、皆がよく協力してくれた。井口、貝島、本岡に感謝する。明日が楽しみだ。
○専門1年、5月22日(月)
 文集を読んでみた。面白い。「田原だから出来たんだ、よく頑張ったねえ」と言ってくれる人がいた。嬉しい。有り難う。本当に嬉しかった。だけど、授業中、眠かった。視力がだいぶ落ちている感じだ。風邪を引いている人がいるが、テニスで鍛えたおかげでか、それを免れている。小さい頃は、いつも春休み前に(インフルエンザで)引いていたなあ。体力第一だ。文集を加納先生(高校3年の時の担任)と近本のおばさん(福岡で浪人していた時の下宿のおばさん)にあげよう。
○専門1年、5月29日(月)晴。
 今日は、骨学の試験がある。専門に入って初めての試験。一応、解剖学の本読み、ノートを読み、「頭蓋骨観察の手引き」をやった。まあ、どんなに悪くても、80点は、取れるはずだ(沢山の骨が並べられていて、それに旗が立っていて、僅か1分間でずって行って、解剖名を書く試験で、旗をどこにあるのか探すのに時間が掛かって、時間不足で知っていても充分に書けなかった人が多かったが、結果は、87点であった)。
 昨日は、俺の記念すべき23歳の誕生日。夏休みは、必死になって勉強しないといけない。一日一日を大切にし、無駄、無理、ムラをなくすことだ。俺の勉強法は、完全なる朝型で、予習型だ。

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為になるかも知れない本(その37)

2007-03-19 07:21:39 | Weblog
専門4年生(執筆者不明)

 4年前、岩崎谷のある家の白いこぶしの花を見て、「ああ、いよいよ専門か」と、新しい門出に感じたのも昨日の様な気がする。その白い花が真っ青な青空を背景に目にしみる様に鮮やかであったのを思い出す。今又、暖かい春の光のもとにその蕾がふくらんで、4年の月日が瞬く間に過ぎたことを改めて痛感する。
 解剖学に始まる医学の門を初めて叩いた時、漠とした広大な学問に感嘆し、蟷螂の斧を振う如しと考えて、無気力に過ごした1年の頃。あの当時は学問に対して謙虚さがなかったことが恥ずかしい。
 こうして惰眠をさぼっていた自分に警鐘となったのは、生化学に居られた森沢先生であった。先生は講義の合間に時々先生の人生観を話しておられた。ある日、「安易な自己満足に陥ることを恐れよ、常に向上への不安の中にあれ!」と言われた。この言葉に非常に感銘を受け、後日、ともすると低きへ流れようとする自分の心の支えになった。
 だが、振り返って見ると、勉学にしろ、他の学内の活動にしろ、いつも自分は消極的であった。自分で自分の視野を狭くして、その中で一つの方向のみに目を向けていた様に感ずる。事物を見て疑問を生じても、目をつむり受動的に行動することが多かった。物事の意義や必然性を考える努力を怠っていた。自分の世界が非常に狭かったと思う。
 医学教育や医療など、全てのことが関係する中で、自己の内面的な努力と一緒に自分の周りの環境を改善する努力なしでは、真の発展はないと思う。医術を研鑽することも必要だが、広い視野に立った医者となることも必要だろう。
 今卒業にあたって、医学に対して謙虚であり、良き医者となることが社会へ対しての責任であり、そうありたいと考える。

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宮本文昭氏

2007-03-18 07:24:23 | Weblog
 世界が愛するオーボエ奏者、57歳の東京音楽大学教授の「宮本文昭」氏。彼は、この3月で引退して、他のことをしようとしている。
 「このままだと、せっかくの人生が、オーボエだけで終わってしまう。それよりも、又、他の事で・・・」と言う。
 彼のエピソードは、尽きない。
 「オーボエを始めて一年後、東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校を受験したんですが、不合格だったんです。しかも、実技で落ちる人はほとんどいなかったのに、ボクはそこで落ちた。その後、理由を聞きに行ったら、こう言われたんです。管楽器の先生には「オーボエに向いていないと思う」、調音の先生には「音に対する感覚が鈍い」と(笑)。厳しいことを言われたんですが、逆にそれがよかったと思っています。オーボエを始めたのは、演奏者人口が少ないので多少下手でも食っていけるという甘い考えもあったんですが、受験失敗で、愕然とした。そして、努力しよう、頑張ろうと思った。・・・「向いてない」「感覚が鈍い」と言うヤツらを見返してやろう、とね(笑)」
 ・・・受験失敗が、宮本氏の人生を決定づけた。桐朋学園高等学校音楽科に進学、オーボエ一筋に打ち込んだ。卒業後、あえて、東京藝術大学音楽学部を受験せずに、単身、ドイツに渡る。

 宮本氏の生き方を見ていると、何か、勇気をもらう。同じ団塊世代の人間として。

 16日(金)、市民健康講座での特講としての依頼を受けた。それで、「子どもは未来」と題して、5月(2回)と6月(2回)に、することになった。
 3月30日に事務長さんの送別会で、4月2日に病院の新人歓迎会の花見で、篠笛と和太鼓の演奏をすることになった。
 今から、医療以外の分野で、それなりにもっともっと頑張って行きたいと思う。今は、充電期間だと思っている。
 ところで、昨日(17日)、午前中に16人、午後は、11人診察、インフルエンザと急性胃腸炎が多かった。しばらく、この傾向が続きそうだが。

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為になるかも知れない本(その36)

2007-03-18 07:13:52 | Weblog
専門2年生(執筆者不明)

 試験は何回受けても嫌なものである。話に聞けば、出題する側にとっても面倒きわまりないこととか。それならいっそ良しとしてしまえばと思うのだが、どうもそういう具合にもいかないものらしい。1月以来、追試追試と追いまくられて、みんなの顔も冴えない。
 ところで、細菌学の講義出席率は、正に最低の一途を辿り、斜面を転がり落ちる雪ダルマのごとく止まる所を知らない。追試の合格率があまり良くないことを考え合わせると、どうも追試ばかりが原因でもないらしい。
 そんな低調な雰囲気の中で、一際目立つのは、女性軍の前席への進出である。今まで目立たぬ席でツツマシヤカに講義を受けていた女性軍が、最前列目指してにわかに進軍を開始したらしい。今日も第2列目に4人の女性が座を占めている。一方、最前列には、ここを女性軍に明け渡してはならじと悲愴の覚悟を持った○君が、ただ一人頑張っている。しかし、彼も睡魔には勝てぬらしい。○君独特の大きな頭が一定のリズムをもって前後に揺れている。これでは、男性軍の陥落もそう遠くはあるまい。学2の男性諸君、奮起せよ。



 専門3年生(執筆者不明)

 待望のポリクリ迎えて、新年早々に始まった3学期も、後10日間残すだけになった。奇しくもポリクリ開始日は、鹿児島には珍しい大雪で、まるで討入りみだいじゃないかと話し合ったものだった。
 最初に回った内科で、先生がカルテを1枚差し出し、この患者さんを診なさいと言われた時には、慌ててしまった。何せ、患者さんに接するのは初めてのことだし、現症を取るのもおぼつかなく、カルテにどう書くのか分からない。予診では、患者さんに試験を受けている様だし、その後の検討では、先生方にみっちり絞られるしで全く立つ瀬がない。信頼してくれる患者さんを前に、概説、各論で得た知識をあれこれとひっくり返すが、無から有を生じる訳はなく、全く自分自身が情けなくなる。毎日”無知の知”の厳しさに鞭打たれている次第である。いつも緊張するのは体に悪いとみえて、防衛反応として土曜日には勉強に対する拒絶反応を起こしてしまう。
 4年生も卒業間近だし、いよいよ我がクラスが最高学年となるのだが、医学の厳しさ、その道の遠さに一層の闘志を燃やし大いに意気上がっているこの頃である。

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為になるかも知れない本(その35)

2007-03-17 08:36:03 | Weblog
以下の文章は、三学期の終わりに、鹿児島医学部新聞に掲載された内容である(執筆者不明)。
 専門1年生
 「光陰矢のごとし」、全くこの1年を振り返って見ると、この言葉の通りです。過ぎし1年前の今頃は、長かりし教養2年間に別れを告ぐべく、一人惜別の情に堪えかねて、酒で心を紛らし、月光に照らされた春の山野に想いを馳ながら、春霞の中でこれから繰り広げられんとする新しき青春ドラマにこの2年間の反動でか、期待と夢とで胸ははちきれんばかりであった。そして無事、芝居の幕は切って落とされた。後は、思う存分舞台の上で踊りまくるだけである。
 しかし、人生意の如く行かないのが常。最初のステップが自己の体力的限界を越え着地に失敗大傷。あとは人生真暗闇か。それからというもの、悪戦苦闘、五里霧中、手探りの生活始まる。それを他人事と知ってか知らないでか、監督は矢継ぎ早に又も難問を要求。これぞ師弟の仲かと諦めて、かような障害を如何に潜り抜かんかと三日三晩不眠不休で思案す。思案に思案を重ねた挙げ句、過労祟りて病床に伏す。これぞ医者の不養生。ここで幕。
 兎に角この一年超音速で飛んで来た思い。苦しい事のみかというとさにあらず。誰が決めたか一年365日、自然の風物移り行き、人の心も又然り。昨日、小指と小指をからませて、貴女と見ていた星の夜。今日、一人の旅の寂しさは、知っていたのさ初めから。これも人格形成への一里塚。
 以上総論、次各論、自分達の不勉強もさることながら、講義には魅力有るものと、時間数が足りるように、ただそれだけを至上目的として出席する講義あり、それだけかというとさにあらず。実習設備の不良不足、指導教官の不足と問題は後を絶たない。そこに石油危機なる怪物出現、学生は無い金吸い取られ金欠病瀕死の状態、「早く家族の人を呼びなさい」云々。学生は食わねど高楊枝。
 兎に角揺れに揺れた激動の一年間でした。でもいかなる時代社会或いは状態にあろうとも、常に長期展望に立つ、広い視野からの発想と行動が必要。
 何かくだらない事を述べて来ましたが、やっと学問の面白さが分かりかけて来たような気持ちになりかけて毎日を楽しく過ごしている今日この頃です。

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為になるかも知れない本(その34)

2007-03-17 07:29:28 | Weblog
鹿児島という所は、夏が長くて非常に暑いのに、冬は冬で寒くて、雪も時々降っていた。桜島の灰には、6カ年間悩まされ続けた。夏の暑い日に、小雨と強い風と灰が一緒になる中を傘をさして学校に行くこともあった。
 それと対照的に、鹿児島県人は非常に人間味溢れる人が多くて、親切で、道を尋ねようものなら、長々と丁寧に説明してくれる。又、教育熱心な所で、休みに県立図書館に行くと、自習室は、中学生や高校生で超満員であった。県外の人が一番困ることは、言葉で、今も私は鹿児島弁は、さっぱり理解できなくて、お年寄りの人が言う時には、別の鹿児島県人の通訳が必要であった(事実、医学生での大学病院での臨床修練の時は、全く理解できなくて、鹿児島出身の同級生に通訳してもらっていて、いっそ、英語の方がましかなあとも皆で言っていた)。灰さえ降らなければ、こんないい所はない思うことがしばしばだった。
 教養課程の2カ年間と違って、専門課程の4カ年間は、メチャクチャに忙しかった。講義には、初めの1年間は、殆どの人が真面目に出席していた(2年、3年になると、つまらない感じの講義に思えた人は、教室から時々出ていた)。しかし、実習をサボる人は殆どいなく、又、実習の出欠のチェックは厳しく、1回でも欠席したことが判明すれば、即留年になる科目もあった。
 朝8時30分から午前中ビッチリ講義があり、午後実習、夜レポート書きというパターンで、春休み、夏休み、冬休みがあっても、その休みの初めと終わりには、ちゃんと試験が控えていた。その試験も、難しい上にとてつもなく範囲は広く、かって秀才だと言われ自分もそう思っていたらしい人の大部分が、追試、追試で劣等感にさいなまれていた。もうこうなると、ラ・サールも修猷館もなく、試験前にいかに要領良く多くの量を一時的でもいいから頭に詰め込められるかという能力のみが試されている様にも思えてならなかった。

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為になるかも知れない話(その33)

2007-03-16 13:02:33 | Weblog
 クラスで作った文集「雑草」より
        I口A司作(現在泌尿器科医)
 題「小さな人生のドラマ」
 もう冬も近いある日、僕はふと思い立って家を出た。湊住宅のバス停から磯とそ線に乗る。25円払って子どもの遊びに使うような小さな粗末な切符を買う。天文館まで約15分、虚しさの中で車窓の外に行き交う人の群に目をやる。ああ、あの人たちは、何が楽しくて生きているのだろう。
 急ぎ足で歩いている人、バス停でバスを待つ人、人それぞれに様々な人生がある。みんなは、やはり幸福を求めて生きているのか。明日を生きる為に、今日を生きているのか。それとも、美しい死に場所を求めて生きているのだろうか・・・そんなことはどうでもいいのだ。僕の頭の中には、どこのパチンコ屋で打とううかということばかりである。この前はリンデンでやって200円ハイライト1個しか取れなかった。フォーカスは、この頃さっぱりだ。さあどこでしようか・・・。天文館の信号は、なかなか青に変わらない。もう風が冷たい。
 みんな講義に行っているのかも知れない。寝ている奴もいるだろう。中国語の勉強にいそしんでいる人いるだろう。そして、僕はたった一人天文館にいる。何が面白くてパチンコなんかするのか・・・。勝った時だって何故か素直に喜べないあの寂しい心、負けた時は尚更のこと、虚しさにどこか遠くへ行ってしまいたくなる。それなのに、又今日も僕は何となくここまで来てしまった。暇だから、それとも部屋にいると人生のそこはかとない大きさに負けてしまいそうだから・・・。うちひしがれた僕の心は、何かを求めていた。人間とは、何故に生きるのかという大きな疑問の中にあって、やっぱりチューリップの沢山付いた台が良かろうと思った。
 僕は、グラハンに行った。広い店だ。福岡にもこれほどの店はそうない。何しろ人の多さには驚く。この人達も今日一日パチンコに賭けているのだろうか。僕だってそうだ。生活費も残り僅か、仕送りの来る日まで、まだだいぶある。僕もおもむろに内ポケットから百円札を取り出す。例えそれがどんなことであっても、こうしてひたすら情熱を傾けることが大事なのだ。
 僕は、祈るような思いで百円札をカウンターに出す。ジャラジャラ・・・少ない。50個のこの軽さよ。もう、昼を過ぎるとグラハンでは、空いた台は殆ど残っていない。どの台も出そうにない。ずっと見て回る。ウロウロしているうちに玉を2個拾った。どうしてパチンコ屋にいると、こうもせちがらくなるのだろうか?いつもなら一万円札が落ちていても見向きもしまいが(?)。 
 皆たくさん出している。大きな箱を2つも貯めているのに、口を尖らせてブツブツ言っている人もいる。よし、僕も頑張るぞ!どこにしようかと迷ってもはじまらない。心を決めて腰を据えた。次々に打って行く。だが、パチンコの玉はそうたやすくは穴の中に入らないようにできている。チューリップは、蕾のままだ。あっと言う間に、昼食代が大きな穴の中に消えた。(もう百円・・・)(バカな、もうやめるんだ)(でも・・・)心の中で葛藤が始まる。しかし、勝利への誘惑が僕の手を内ポケットへと導く。もう百円、・・・、明日の昼飯を抜けば何とかなるさ・・・。僕は再び50個の玉を大事そうに持って台を探す。そして、打つ。
 左隣は中年のいやらしそうなおやじであまり調子は良くない。右隣は空いているが、その台は僕の嫌いなやつだ。僕は、どっかり座って玉を込める。ピンピンと玉がはずむ。てっぺんに入るとチューリップが2つ開く。信じられない程入る。サイドに入ると2段あるチューリップのやつがピラッと開く。そしたらもう2個入ることになる。
 あっという間に玉が増えてしまった(これは定量台になるかも知れない)。隣のおじさんが恨めしそうに見ている。非常に気になる。横目でにらみすえる。それでもまだジャランジャラン玉が出てくる(定量かも知れない)。隣の人が負けて帰る。ホッとする。しかし、いつの間にかあまり入らなくなってきている。今まであれだけ入っていたのに、不思議なほど玉がはじき始めた。不安と焦燥が僕の心に頭をもたげてくる。(入らない・・・おかしい・・・どういうことだ)
 下の受皿にまで一杯だったのに少しずつ減り始めている。時々、思い出したように入る。(少し休もう・・・)タバコを探す。音楽が初めて耳に入る。「長崎から船に乗り・・・」聞いたこともないような歌謡曲である。再び挑む。右隣に若い女が座った。ますます気が散る。その女性、顔を見るとウェーとなるような厚化粧、しかしどんどん玉を出す。ああ今更ながら隣でやれば良かったと思う。場内アナウンスが「調子は如何ですか、当店は皆様方からよく出る店と喜ばれて・・・」何が調子がどうだだ!台を叩いてやりたい衝動に駆られた矢先、「台はお叩きにならないように」とこうくる。
 あと30発入らなかったら台をかわろう。1、2、3、4、・・・28、29、あっ入った。15発出るから15を引いて14、15、16,・・・23あっ又入った。8、9、10おっチューリップが開いた。しかし、これがなかなか閉じてくれない。入りやすそうで入らない。イライライライラ、これではパチンコにかつ筈がない。僕の顔は青ざめ、次第に首がうなだれてくる。
 生きることの喜び、・・・ああこの金属音と人混みとタバコの煙の中に何の希望があるのだろうか。もう、今更ハイライトを取ることさえもできない。僕はそんな虚しさの中に全ての精力を使い果たした。全ての金属球をはじき終わり、思いドアを開けて外に出た。
 陽は幾分か西に傾いていた。それまで真青に澄み切っていた空がいつの間にか、淡い紅に変わろうとしていた。初冬の肌寒い風が空虚な僕の心に寂しさを運んで来ては去って行った。僕は今日も決心した。
 もう絶対にパチンコなんてしないぞ!!

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