卒業が一日一日と迫っている、私の受け持つ6年生たち。
本当にがんばり屋さんで、しっかりものなんです。
私も何度か6年生担任をしてきていますが、それぞれに特徴のある子たちでしたが、今年の子たちは、かなりの安定感があります。
おかげで、私も今年はかなり落ち着いて仕事をさせてもらっています。
学習面に関しても高い評価ができるものがあります。
私は5年生のときからこの子たちを持っていますが、5年生のときはお勉強が苦手な子が多く、夏休みは算数の補習をしたほどでした。
それが、がんばり屋さんの子たちはここにくるまでにめきめきと力をつけ、各テストや学力調査では高い成績を出すようになりました。
ときおり授業を見る外部の人たちも、「感心した」という声を聞かせてくれるほどです。
そんな子たちとする毎日の授業も、楽しませてもらっています。
高い次元を目標に掲げて授業をするので、教師としても一段のやりがいを感じます。
いつも、シーンとした落ち着いた雰囲気。
ピンと張りつめた心地よい緊張感。
発表者の声が静かに響く。
まさに6年生らしい学習環境だと言えると思います。
卒業を前に、こんな姿であることを、担任としても素直にうれしく思っています。
こんな子どもたちの前で授業をしていると、子どもたちがノートに向かう、その静かな時間の中のふとしたときに、私は自分の授業の仕方を見つめ直してみたりします。
そして思います。
(・・・・楽してないか?)
子どもたちが落ち着いて授業を受けてくれるものだから、先生のどんな話も真剣に聴いてくれるものだから、授業の形にこだわらなくなってしまっているんじゃないかと。
例えば、導入場面。
通常なら、子どもたちの興味を引くためにインパクトのある視聴覚教材を準備してのぞむところ。
でも、この子たちたちは、それがなくてもそれから先の授業に真剣にのぞめるから、そんな導入を省いてしまう。
発問。
理解の遅い子たちのためにも、発問の内容を精選したり、段階を踏んで発問のレベルを上げていくなどの工夫をするところを、それをせずに、ずばり問いたいことをストレートに投げかけてしまう。
どうもそんな授業を当たり前にしてしまうようになりました。
授業を構成する指示や説明、板書など1つ1つにしても、丁寧さを欠くようになってしまったなと、気付かされます。
もし、こんな授業をやんちゃな子たちを相手にしていたら、授業にならないだろうなと思います。
もちろん、これまではやんちゃな子たち相手にできるかぎり工夫した授業を私もしてきたのですが、今年はその腕がすっかり鈍っているように思います。
そんな授業をしていたら、今年の子たちにも失礼です。
表面上はいい流れに乗った授業に見えても、やはり子どもたち一人一人の内面のやる気や理解は、それぞれに差異があるはずです。
やる気や理解度が低い子も必ずいて、その子たちのためにも工夫ある授業が必要です。
なんというか、小学校の先生らしい、泥臭い努力がやっぱり必要です。
私の「甘え」を反省すれば
子どもが手強いほど、授業力は上達する!
ということなんでしょうね。
子どもが手強くなくても、授業力の上達はいつも目指さなくては。