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He who laughs last laughs best

物語の生まれる場所

2015-06-17 12:57:57 | 
<世界史で習った「マグナ・カルタ」制定800年> 2015年06月16日 17時41分読売新聞より引用
【ロンドン=柳沢亨之】英国の民主主義や世界の人権思想の礎とされる文書「マグナ・カルタ(大憲章)」の制定から800周年の15日、同文書が署名されたロンドン西郊ラニーミードで記念式典が行われ、英国のエリザベス女王やキャメロン首相、米国のリンチ司法長官ら数千人が参列した。
マグナ・カルタは1215年6月15日、国王に反発した貴族が王に署名させた文書で、不当逮捕禁止など国家権力の制限を規定。英議会制民主主義の発展をもたらし、米独立宣言に影響を与えた。
 式典でキャメロン首相は「マグナ・カルタの意義は800年前と同様、今も大きい。世界中に、法治主義を享受できない人々がいる」と述べた。リンチ長官は「マグナ・カルタの精神を実行に移し、平等、機会、正義の新たな領域へと踏み出していかなければならない」と呼びかけた。


このニュースを見て山川の世界史用語集を見直してみると確かに、マグナ・カルタとは貴族の反発に屈して国王が認めたものらしい。
底の浅い勉強しかしてこなかったので、マグナカルタの何たるかはさておき、1215年・法の支配(関連ワード、国王は何人の下にあってはならないが、国王といえども神と法の下にある)、これが名誉革命・権利の章典につながるという、いかにもテスト対策的な記憶しかなく、そこに生きる人の物語について考えたことはなかった。

この当時の国王にしてみれば屈辱的な手続きを経て制定された屈辱的内容でしかない文章を、アメリカ独立後の150年間イギリス・アメリカが命をかけて守ってきた共通の遺産であると誇らしげにお言葉にされたのが、マグナ・カルタから800年後に国王の座におられるエリザベス女王陛下だ。(参照、「日英の絆」

「悲嘆の門」(宮部みゆき)は、人の数ほど国の数ほど物語はあり、歴史も物語だというが、では国と一体化した方のうちにある物語とは、どのようなものか?
そんなことも考えながら、「悲嘆の門」を読み返していた。

「悲嘆の門」はファンタジーなので独特の言葉の用いられ方がある。
「物語を生きる 物語で生きる」で書いた「言葉という精霊(すだま)が生まれ出ずる領域(リージョン)」の領域(リージョン)もそうだが、<輪(サークル)>もその代表だ。
<輪(サークル)>とは何か?
「この世界を包み込んでいる全ての物語が織りなしている世界のこと」
つまり、
『人は、実在する事象のなかに存在しているけれど、それだけでは生きられるものではない。事象を解釈し、そこに願望や想像を重ねて、初めて人間として生きることができる。その願望や想像が<物語>よ』
『<輪>は、そういう物語の集積だ。』
『世界に対する解釈の集積』、ゆえに歴史も物語だという。

優れた科学者なら<わからないこと><解明できていないこと>を曖昧にはしないが、科学者以外の普通の人間は事実と仮説の境界が厳密でなく物語を優先するので、物語はどんどん増え膨らんでいくが、それ自体は悪いことではないという。
『物語はけっして悪いものじゃない。人間の希望や、生きる喜びそのものだから。あるいは慰めや救済だから。あるいは正義であり善意だから』

『それでもー結果として物語が<悪>を呼び込むことがある。』

『物語はそれほどに自在なものだから。人間の善意と同時に、人間の業から生まれるものだからよ』
『ひとつの物語を拠り所にして、それに同意しない他者を攻撃する。中世の異端審問や、あらゆる宗教の極端な原理主義者が引き起こす破壊的なテロ。あれはすべて物語の罪。物語が結果として悪意を呼び込んでしまったときに起る現象』

主人公の孝太郎に<領域><輪>を説く異界の使者・友里子は、物語の良い面を認めつつも、「物語は人間が吐き出し、人間を喰う業だ」と言い切る。

小説ではこの後さらに、物語と言葉について興味深い会話が続くが、それは「つづく」として、今日は、「壮大な物語をもつ国と一体化した方のうちにある物語」について、もう少し考えてみる。

国王の権限を制限するマグナ・カルタを受け入れるのはジョン王としては屈辱でしかなかったはずだが、(王朝が異なるとはいえ)エリザベス女王は、後世に確立した「自由と法の支配を確立させた偉大な憲章マグナ・カルタ」という評価を、「マグナ・カルタの原則を貫き命をかけて自由を守るイギリス」とお言葉に取り入れることにより、物語に新たな命を与えられた。

歴史が長ければ、時々に事実の評価は変わり、その時々に国にとり為政者にとり都合よい物語が生まれるのだと思うが、都合よい物語がそれぞれの時代に即していれば、その<輪>のうちの人々にとってその物語は都合の悪いものではないかもしれない。
しかし、まったく時代の流れに沿わない物語に国や為政者が固執していたら、どうだろうか?
国と一体化した存在の方は御自身の物語と同時に国の物語を背負われており、それらが相俟った物語は国民に大きな影響を及ぼしかねない。

「悲嘆の門」はいう、「物語には源泉があり、そこに始まりそこに還っていくという、その場所では巨大な咎の大輪が回っている」と。

男児を生んだ女性と男児だけが尊重されるべきという物語に固執するあまり、その物語のうちにある方が心を病んでしまうという状況は、まさに巨大な咎の大輪が回っているのに他ならないと思われる。そして、この物語が声高に説かれれば説かれるほど、国民一人一人の個々の物語にも影響を及ぼしかねず、違う物語をもつ国とは軋轢を生む原因にもなりかねない。

固有の物語を有することは重要だが、エリザベス女王が固有の物語に普遍的価値観という命を吹き込まれたように、時代に即した解釈の変化を受け入れつつ普遍的価値観を織り込んでこそ、人々の希望となる物語が生まれるのではないだろうか、そんなことも考えている。