「こんにゃく思索」で書いた、ニーチェの言葉と「悲嘆の門」(宮部みゆき)の山科社長の言葉を戒めのために、再掲する。
山科社長の言葉と主人公孝太郎の思い
『書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句でさえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。私が言ってるのは、そういう意味。つまり<蓄積する>』
『女性タレントの誰々なんか氏ね。そう書き込んだ本人は、その日のストレスを、虫の好かない女性タレントの悪口を書いて発散しただけだと思ってる。でも<氏ね>という言葉は、書き手のなかに残る。そう書いてかまわない、書いてやろうという感情と一緒に』・・・・・そして、それは溜まってゆく。
『溜まり、積もった言葉の重みは、いつか発信者を変えていく。言葉はそういうものなの。どんな形で発信しようと、本人と切り離すことなんか絶対にできない。本人に影響を与えずにはおれない。どれほどハンドルネームを使い分けようと、巧妙に正体を隠そうと、他の誰でもない発信者自身は、それが自分だって知ってる。誰も自分自身から逃げることはできないのよ』
孝太郎は思う
『うちの母親だったら、<やったことは身に返る>という言い回しをするだろう』と。
ニーチェの言葉
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」
「こんにゃく思索」の末尾で、「ニーチェと山科社長の言葉を肝に銘じつつも、もの申さねばならない正当な怒りがある」と書いたが、「悲嘆の門」を読めば、殺人者を罰したいという正当な怒りによる行動であっても、個人的制裁は物語に呑み込まれてしまっていることに他ならず、必ず後悔することになる、という。
それを分かったうえで、架空ネット世界に溢れる悍ましい感情と言葉、それを実態社会に橋渡しする悍ましいマスコミにモノ申したい。
「皇太子御一家を叩き潰す物語」は架空ネット世界では、かなり早くからあった。
ご成婚から6年以上の年月が経ち、待ちに待った初めての御懐妊が残念な結果となった一年数か月後の御懐妊のご一報。
皇太子ご夫妻というお立場をこえ、これを人として喜ばない人間がいるとは思えなかった。事実、実態社会は喜びの声であふれ、これを機に皇室典範を改正しよう(女性天皇を認める)という議論が国会でも沸き起こった。
しかし、それを黒い情念でみる勢力があった。(ネット上で皇太子御一家を叩く存在は一部組織化しているとしか思えないものがある)
彼らはあろうことか、「流産祈願」という言葉をネット上に書き散らかした。
「流産祈願」は、皇太子ご夫妻を叩き潰したいという暗い情念で作られる物語から生じた言葉であり、この暗い情念は今もネット上で物語を作り続けているが、当時はまだ実態社会にまでその影響は及んでなかった。
しかし時が経つにつれ巧妙さは増し、「流産祈願」という誰が見ても悍ましい言葉を書き連ねる手法に、間違った情報を大量に投下することで、その情報に触れる人間を「皇太子御一家を叩き潰す物語」に巻き込むという手口を加え、悪意を増殖させていく。
・皇太子ご夫妻の祭祀や慰霊のお気持ちへの誤解を撒き散らすネットのニセ情報
・雅子妃殿下の御学歴や、ご実家との交流の在り方、ご実家の家柄に関するニセ情報
・自閉症だのアスペルガーだのと敬宮様に向けられる御成長についての悪質極まりないニセ情報
これらは全て、暗い情念に取りつかれた勢力の「皇太子御一家を叩き潰す物語」から生まれたニセ情報であったにもかかわらず、架空ネット世界に大量にばら撒かれたため実態社会にまで影響を及ぼした、ほんの一例でしかない。
ネット上に溢れる離婚だの廃太子だのの言葉が、ついには書籍や月刊誌の巻頭を飾る論考にまでなっていき、
まだ幼児でしかない敬宮様へのネット上の罵詈雑言は、ついには週刊誌の「笑わない愛子様」の大見出しにまでなってしまった。
ネット上を蠢く暗い情念「皇太子御一家を叩き潰したい物語」が実態社会と一体化した例さえある。
皇太子御一家をバッシングするチラシが撒かれているというネット上の情報を、情報と同時進行で掲載したある新聞社系の週刊誌。
皇太子ご夫妻が被災地を訪問された翌日には、そのご訪問を見てきたかのようなバッシング記事を掲載した週刊誌が発売になる摩訶不思議。そして、その記事通りの批判をネット上に巻き起こし、皇太子ご夫妻を叩くためなら東日本大震災の被災者でさえ罵倒する言葉を書き連ねる。
一つ一つの罵詈雑言の元を正せば全て、「皇太子御一家を叩き潰したい物語」から出ているものと思われる。
「悲嘆の門」では主人公が正義の鉄槌を下そうとするのに対し、人間に悪い影響を与える物語を狩る役目の友里子がその危険性を警告しているので、「皇太子御一家を叩き潰したい物語」の作者が誰であるかを詮索するのは止めにしたい。
「悲嘆の門」はいう、『物語には源泉があり、そこに始まりそこに還っていくという、その場所では巨大な咎の大輪が回っている』と。
「男児を生んだ女性と男児だけを尊重すべしという物語」に固執するあまり、その物語のうちにある方が軽んじられ心を病んでしまうという状況は、まさに巨大な咎の大輪が回っているのに他ならないが、これと並行して生み出される「皇太子御一家を叩き潰したい物語」は暗い情念で編まれているため咎の大輪の負のエネルギーは更に大きい。
サイバーパトロール会社の社長の言葉にある通り、人の発した言葉は必ずや、それを発した人のなかに溜まり積もっていく。
その言葉を生み出す(負の)エネルギーが大きければ大きい程、咎の大輪も大きくなり、いずれ言葉を発した人間をも押しつぶすことと思われる。
主人公の感慨通り、「やったことは身に返る」
だから、この件についてこれ以上は(多分)書かない。
ただ静かに、心からの応援を続けようと思っている。
山科社長の言葉と主人公孝太郎の思い
『書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句でさえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。私が言ってるのは、そういう意味。つまり<蓄積する>』
『女性タレントの誰々なんか氏ね。そう書き込んだ本人は、その日のストレスを、虫の好かない女性タレントの悪口を書いて発散しただけだと思ってる。でも<氏ね>という言葉は、書き手のなかに残る。そう書いてかまわない、書いてやろうという感情と一緒に』・・・・・そして、それは溜まってゆく。
『溜まり、積もった言葉の重みは、いつか発信者を変えていく。言葉はそういうものなの。どんな形で発信しようと、本人と切り離すことなんか絶対にできない。本人に影響を与えずにはおれない。どれほどハンドルネームを使い分けようと、巧妙に正体を隠そうと、他の誰でもない発信者自身は、それが自分だって知ってる。誰も自分自身から逃げることはできないのよ』
孝太郎は思う
『うちの母親だったら、<やったことは身に返る>という言い回しをするだろう』と。
ニーチェの言葉
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」
「こんにゃく思索」の末尾で、「ニーチェと山科社長の言葉を肝に銘じつつも、もの申さねばならない正当な怒りがある」と書いたが、「悲嘆の門」を読めば、殺人者を罰したいという正当な怒りによる行動であっても、個人的制裁は物語に呑み込まれてしまっていることに他ならず、必ず後悔することになる、という。
それを分かったうえで、架空ネット世界に溢れる悍ましい感情と言葉、それを実態社会に橋渡しする悍ましいマスコミにモノ申したい。
「皇太子御一家を叩き潰す物語」は架空ネット世界では、かなり早くからあった。
ご成婚から6年以上の年月が経ち、待ちに待った初めての御懐妊が残念な結果となった一年数か月後の御懐妊のご一報。
皇太子ご夫妻というお立場をこえ、これを人として喜ばない人間がいるとは思えなかった。事実、実態社会は喜びの声であふれ、これを機に皇室典範を改正しよう(女性天皇を認める)という議論が国会でも沸き起こった。
しかし、それを黒い情念でみる勢力があった。(ネット上で皇太子御一家を叩く存在は一部組織化しているとしか思えないものがある)
彼らはあろうことか、「流産祈願」という言葉をネット上に書き散らかした。
「流産祈願」は、皇太子ご夫妻を叩き潰したいという暗い情念で作られる物語から生じた言葉であり、この暗い情念は今もネット上で物語を作り続けているが、当時はまだ実態社会にまでその影響は及んでなかった。
しかし時が経つにつれ巧妙さは増し、「流産祈願」という誰が見ても悍ましい言葉を書き連ねる手法に、間違った情報を大量に投下することで、その情報に触れる人間を「皇太子御一家を叩き潰す物語」に巻き込むという手口を加え、悪意を増殖させていく。
・皇太子ご夫妻の祭祀や慰霊のお気持ちへの誤解を撒き散らすネットのニセ情報
・雅子妃殿下の御学歴や、ご実家との交流の在り方、ご実家の家柄に関するニセ情報
・自閉症だのアスペルガーだのと敬宮様に向けられる御成長についての悪質極まりないニセ情報
これらは全て、暗い情念に取りつかれた勢力の「皇太子御一家を叩き潰す物語」から生まれたニセ情報であったにもかかわらず、架空ネット世界に大量にばら撒かれたため実態社会にまで影響を及ぼした、ほんの一例でしかない。
ネット上に溢れる離婚だの廃太子だのの言葉が、ついには書籍や月刊誌の巻頭を飾る論考にまでなっていき、
まだ幼児でしかない敬宮様へのネット上の罵詈雑言は、ついには週刊誌の「笑わない愛子様」の大見出しにまでなってしまった。
ネット上を蠢く暗い情念「皇太子御一家を叩き潰したい物語」が実態社会と一体化した例さえある。
皇太子御一家をバッシングするチラシが撒かれているというネット上の情報を、情報と同時進行で掲載したある新聞社系の週刊誌。
皇太子ご夫妻が被災地を訪問された翌日には、そのご訪問を見てきたかのようなバッシング記事を掲載した週刊誌が発売になる摩訶不思議。そして、その記事通りの批判をネット上に巻き起こし、皇太子ご夫妻を叩くためなら東日本大震災の被災者でさえ罵倒する言葉を書き連ねる。
一つ一つの罵詈雑言の元を正せば全て、「皇太子御一家を叩き潰したい物語」から出ているものと思われる。
「悲嘆の門」では主人公が正義の鉄槌を下そうとするのに対し、人間に悪い影響を与える物語を狩る役目の友里子がその危険性を警告しているので、「皇太子御一家を叩き潰したい物語」の作者が誰であるかを詮索するのは止めにしたい。
「悲嘆の門」はいう、『物語には源泉があり、そこに始まりそこに還っていくという、その場所では巨大な咎の大輪が回っている』と。
「男児を生んだ女性と男児だけを尊重すべしという物語」に固執するあまり、その物語のうちにある方が軽んじられ心を病んでしまうという状況は、まさに巨大な咎の大輪が回っているのに他ならないが、これと並行して生み出される「皇太子御一家を叩き潰したい物語」は暗い情念で編まれているため咎の大輪の負のエネルギーは更に大きい。
サイバーパトロール会社の社長の言葉にある通り、人の発した言葉は必ずや、それを発した人のなかに溜まり積もっていく。
その言葉を生み出す(負の)エネルギーが大きければ大きい程、咎の大輪も大きくなり、いずれ言葉を発した人間をも押しつぶすことと思われる。
主人公の感慨通り、「やったことは身に返る」
だから、この件についてこれ以上は(多分)書かない。
ただ静かに、心からの応援を続けようと思っている。