『「かのように」を超えた処』で、明治期の世情に触れた。
「かのように」は、大逆事件を懸念した山縣有朋が危険思想対策を講じるため森鴎外に書かせたという説もあれば、この事件に怒りを覚えた森鴎外は軍医総監という職を賭す覚悟で「沈黙の塔」を書いたという説もあり、森鴎外の志向・思考は凡人の私には分からないので、明治と云う時代の空気を考えてみたいと思う。
同世代の人間は口をそろえて言うが、学校の歴史授業と云うのは、時間的都合なのか厄介事には係るまいという意図なのか、三学期に明治以降を駆け足で教え、近代現代についてはほとんど触れない。埴輪や土器の次は戦国時代で終わってるというお粗末な私の頭には、大逆事件は印象に薄いので、この機会に少しだけ調べてみた。
大逆事件の本質について理解を深めることは出来なかったが、この事件を一般国民が如何にとらえたかについては、然もアリなんという思いと驚きの気持ちで綯交ぜになっている。
永井荷風は自由な言論が弾圧される風潮を、『日本はアメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し、体制派は、逆らう市民を迫害している。』(1919「花火」)と喝破したそうだそうだが、この風潮を、世界中が批判しようが日本の知識人が批判しようが、日本の一般人は歓迎したというのだ。一般庶民にとっての「悪」とは、大勢や権力に弾圧される側をいうのだそうだ。
その後の日本が辿る道を考えれば然もアリなんとも思えるし、現在のソーシャルメディア社会では、体制でも権力でもない者が大声で撒き散らかす「嘘も100回言えば信じる者を増やせる」的悪意の捏造までもが一定の浸透をみていることを考えれば、大声に弱いという庶民の変化の無さに驚きも覚えている。
「明治期の思想表現の自由と国民性」と銘打つこともできる一大論考を考える頭はないが、永井荷風の『日本はアメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し』という言葉で思い出した、本がある。
「颶風の王」(河崎秋子)
本書は、明治時代から平成に至るまでの、ある馬と縁のある一族と馬との数代にわたる物語である。
この「ある馬」の子孫は、馬飼いたる主人公一族の想いと偶然の産物と嵐という天候の采配で、日本の純血種を守ることができたのだが、そうなるに至る過程は空恐ろしい。
『もともと維新以前の日本人は馬の品種改良や育種についての知識は乏しかった。飼育する馬は広大な野に放し、必要な時に集めて戦に使えそうな良い馬を連れ出しては使い潰した。交配は残った形質の劣る馬で行われ、結果、種としては長い時間をかけて鈍磨されていったのである。
明治期に入り西欧文化が流入することは、家畜飼養の価値観が流入することでもあった。当然、馬についても品種改良による形質の向上が必要だと政府は理解する。同時に自覚する。この国の馬は小さい。気性が荒い。扱いづらい。これは西洋列強と国力を比較した際、明らかな弱点だった。
至急研ぎ直さなければならなかった。亀裂を埋め、錆を落とし、刃をつけ、研ぎ直さなければ、戦争も農耕も欧米のそれに追い付けない。ではどうするべきか。政府は馬に関する部署を新設して、良い馬を効果的に増やす方法を考える。そうして思い至る。実行可能でかつ最大限に効果的な方法、大型馬を輸入すればいい。体が大きく、従順で、子孫を残せる、立派な牡馬を。彼らを、国内にいる全ての牝馬と交配させる。そうすれば、国産馬全てを海外馬と入れ換えるほどでなくとも、仔馬にその形質は確実に受け継がれる。
故に、日本の小さい牡馬は、もう仔を残す人ようがないとされた。むしろ残してはならない。牝馬の腹は全て外国馬のために使われなければならない、と。
このために、日本の牡馬は悉く去勢されることが決まった。文字通りの根絶やしである。これ以上小さな形質の馬が増えることがないよう、牡馬は徹的に生殖能力を奪われた。そうすればこれ以降、全ての仔馬は外国馬を父に持ち、大きい形質を半分受け継ぐことになる。それが大きくなったら、また大きな個体同士を交配させればいい。このように計画的な交配を数代も繰り返せば、小さな馬が現出する可能性は低くなるという目論見だった。
そうして、血と行き詰まりの果てに日本の馬は外の馬と交雑した。日本にもともといた馬の純血種は完全に淘汰された。
政府の計画の下、完全に淘汰したのだと、そう思われていた。
だが実際には違う。例外はあった。』
この例外となるのが「颶風の王」の血統であるが、数少ない例外を除いて、日本の純血種は政府の政策のもとに淘汰されてしまった。
淘汰という言葉では生易しい。
西洋列強に追い付くために、国家が政策的に日本の純血種である牡馬を根絶やしにしたのだ。
御一新以降、「西洋に追いつけ追い越せ」と遮二無二ひた走る言い訳に「和魂洋才」などという言葉を使ったが、永井荷風が云うように欧米の根底にある価値観を理解することなく『上辺だけの西欧化に専心』するという軽薄さは、肝心要の 和魂まで鈍刀にしてしまったのではないだろうか。
この行き過ぎた「上辺だけの西欧化への専心」の反動が、行き過ぎた精神論に走らせ、「かのように」という穏健派とも危険思想とも捉えられる微妙な作品を生ませる背景になったのではないだろか。
そのあたりについては、又つづく
「かのように」は、大逆事件を懸念した山縣有朋が危険思想対策を講じるため森鴎外に書かせたという説もあれば、この事件に怒りを覚えた森鴎外は軍医総監という職を賭す覚悟で「沈黙の塔」を書いたという説もあり、森鴎外の志向・思考は凡人の私には分からないので、明治と云う時代の空気を考えてみたいと思う。
同世代の人間は口をそろえて言うが、学校の歴史授業と云うのは、時間的都合なのか厄介事には係るまいという意図なのか、三学期に明治以降を駆け足で教え、近代現代についてはほとんど触れない。埴輪や土器の次は戦国時代で終わってるというお粗末な私の頭には、大逆事件は印象に薄いので、この機会に少しだけ調べてみた。
大逆事件の本質について理解を深めることは出来なかったが、この事件を一般国民が如何にとらえたかについては、然もアリなんという思いと驚きの気持ちで綯交ぜになっている。
永井荷風は自由な言論が弾圧される風潮を、『日本はアメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し、体制派は、逆らう市民を迫害している。』(1919「花火」)と喝破したそうだそうだが、この風潮を、世界中が批判しようが日本の知識人が批判しようが、日本の一般人は歓迎したというのだ。一般庶民にとっての「悪」とは、大勢や権力に弾圧される側をいうのだそうだ。
その後の日本が辿る道を考えれば然もアリなんとも思えるし、現在のソーシャルメディア社会では、体制でも権力でもない者が大声で撒き散らかす「嘘も100回言えば信じる者を増やせる」的悪意の捏造までもが一定の浸透をみていることを考えれば、大声に弱いという庶民の変化の無さに驚きも覚えている。
「明治期の思想表現の自由と国民性」と銘打つこともできる一大論考を考える頭はないが、永井荷風の『日本はアメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し』という言葉で思い出した、本がある。
「颶風の王」(河崎秋子)
本書は、明治時代から平成に至るまでの、ある馬と縁のある一族と馬との数代にわたる物語である。
この「ある馬」の子孫は、馬飼いたる主人公一族の想いと偶然の産物と嵐という天候の采配で、日本の純血種を守ることができたのだが、そうなるに至る過程は空恐ろしい。
『もともと維新以前の日本人は馬の品種改良や育種についての知識は乏しかった。飼育する馬は広大な野に放し、必要な時に集めて戦に使えそうな良い馬を連れ出しては使い潰した。交配は残った形質の劣る馬で行われ、結果、種としては長い時間をかけて鈍磨されていったのである。
明治期に入り西欧文化が流入することは、家畜飼養の価値観が流入することでもあった。当然、馬についても品種改良による形質の向上が必要だと政府は理解する。同時に自覚する。この国の馬は小さい。気性が荒い。扱いづらい。これは西洋列強と国力を比較した際、明らかな弱点だった。
至急研ぎ直さなければならなかった。亀裂を埋め、錆を落とし、刃をつけ、研ぎ直さなければ、戦争も農耕も欧米のそれに追い付けない。ではどうするべきか。政府は馬に関する部署を新設して、良い馬を効果的に増やす方法を考える。そうして思い至る。実行可能でかつ最大限に効果的な方法、大型馬を輸入すればいい。体が大きく、従順で、子孫を残せる、立派な牡馬を。彼らを、国内にいる全ての牝馬と交配させる。そうすれば、国産馬全てを海外馬と入れ換えるほどでなくとも、仔馬にその形質は確実に受け継がれる。
故に、日本の小さい牡馬は、もう仔を残す人ようがないとされた。むしろ残してはならない。牝馬の腹は全て外国馬のために使われなければならない、と。
このために、日本の牡馬は悉く去勢されることが決まった。文字通りの根絶やしである。これ以上小さな形質の馬が増えることがないよう、牡馬は徹的に生殖能力を奪われた。そうすればこれ以降、全ての仔馬は外国馬を父に持ち、大きい形質を半分受け継ぐことになる。それが大きくなったら、また大きな個体同士を交配させればいい。このように計画的な交配を数代も繰り返せば、小さな馬が現出する可能性は低くなるという目論見だった。
そうして、血と行き詰まりの果てに日本の馬は外の馬と交雑した。日本にもともといた馬の純血種は完全に淘汰された。
政府の計画の下、完全に淘汰したのだと、そう思われていた。
だが実際には違う。例外はあった。』
この例外となるのが「颶風の王」の血統であるが、数少ない例外を除いて、日本の純血種は政府の政策のもとに淘汰されてしまった。
淘汰という言葉では生易しい。
西洋列強に追い付くために、国家が政策的に日本の純血種である牡馬を根絶やしにしたのだ。
御一新以降、「西洋に追いつけ追い越せ」と遮二無二ひた走る言い訳に「和魂洋才」などという言葉を使ったが、永井荷風が云うように欧米の根底にある価値観を理解することなく『上辺だけの西欧化に専心』するという軽薄さは、肝心要の 和魂まで鈍刀にしてしまったのではないだろうか。
この行き過ぎた「上辺だけの西欧化への専心」の反動が、行き過ぎた精神論に走らせ、「かのように」という穏健派とも危険思想とも捉えられる微妙な作品を生ませる背景になったのではないだろか。
そのあたりについては、又つづく