『「かのように」を要する時代』のつづき
西洋に追い付き追い越す為なら、丁髷を切り落として散切り頭にすることも、日本の純血種の牡馬を根絶やしにすることも厭わず突き進む、その行き過ぎた「上辺だけの西欧化への専心」の反動が、行き過ぎた精神論に走らせたのではないか。
大御宝たる民から攻撃されることなど想定してない為に低い土塀に囲まれただけの京都御所で静かにお暮らしになっていた天子様を担ぎ出し、行き過ぎた「上辺だけの西欧化への専心」に対峙する「行き過ぎた精神論」の真ん中に据え、かってに持ち上げたり大逆事件の渦中においたりして、結果として「かのように」のような論法を要することとしてしまった。
「かのように」(森鴎外)は、『今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい』『神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外の神霊の存在は疑問になって来るのである』『神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられない』と云いながら、『僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める』『祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く』と云うが、私はそんな七面倒な頭脳回路はとっていない。
西行法師の『何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる』 が全てである。
では、涙こぼるるまでの忝さを感じさせるものとは、何なのか。
「かのように」を用いずとも頭を垂れたくなる神話とは、何なのか。
天地開闢(天地初発之時)であって、それではない。
神世七代(性別のない五柱の神と男女対となる五組十柱の神)であって、それではない。
天孫降臨であって、それではない。
そもそも伊勢神宮に御坐すのは、女神である天照大御神と豊受大御神ではないか。
「西洋に追いつけ追い越せ」の過程で、屈辱的な思いを呑み込んでまで上っ面の西洋化を取り入れた反動で東洋独特の思想(儒教)に固執した結果の、それではないか。
神話は時に残酷なものを含むとしても、男子を産めなかったという一点で存在を否定され心を病むまで追いつめられた皇太子妃や、男子でないというだけで存在を無いものとするため罵詈雑言を向けられた東宮の一粒種の姫の物語を、神代からの神話に如何に記すのか。
それが罷り通る物語はもはや、性別のない五柱と男女対となる五組十柱を祖とする神話に連なるものではないのではないか。
それが罷り通る世界はもはや、伊勢神宮とは世界を別にするのではないか。
そのような物語・世界には、「かのように」の便宜を以てしても、頭を垂れることは出来ないのではないか。
とはいえ、このように直截にものを書いてしまう私は、まだまだ修行が足りないのかもしれない。
深代惇郎の天声人語によると、大隈内閣で司法相をした尾崎行雄は、第二次世界大戦後に皇居から呼ばれ31年ぶりに天皇にお会いした折、狂歌一首を奉呈している。
『今日は御所 昨日は獄舎 明日は又 地獄極楽 いづち行くらん』
『尾崎は戦争中、東条内閣の手で不敬罪として起訴されたが、この起訴には勅許が必要だった。そのことを暗に読み込んだのだろうが、この一首を見て、天皇は笑い声を漏らされたそうだ』
狂歌に諸々を託す鋭さも、それを全て承知で笑い声に変える度量も、ありはしない。
ブログをはじめて一年、まだまだ修行の日々は続く。
西洋に追い付き追い越す為なら、丁髷を切り落として散切り頭にすることも、日本の純血種の牡馬を根絶やしにすることも厭わず突き進む、その行き過ぎた「上辺だけの西欧化への専心」の反動が、行き過ぎた精神論に走らせたのではないか。
大御宝たる民から攻撃されることなど想定してない為に低い土塀に囲まれただけの京都御所で静かにお暮らしになっていた天子様を担ぎ出し、行き過ぎた「上辺だけの西欧化への専心」に対峙する「行き過ぎた精神論」の真ん中に据え、かってに持ち上げたり大逆事件の渦中においたりして、結果として「かのように」のような論法を要することとしてしまった。
「かのように」(森鴎外)は、『今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい』『神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外の神霊の存在は疑問になって来るのである』『神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられない』と云いながら、『僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める』『祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く』と云うが、私はそんな七面倒な頭脳回路はとっていない。
西行法師の『何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる』 が全てである。
では、涙こぼるるまでの忝さを感じさせるものとは、何なのか。
「かのように」を用いずとも頭を垂れたくなる神話とは、何なのか。
天地開闢(天地初発之時)であって、それではない。
神世七代(性別のない五柱の神と男女対となる五組十柱の神)であって、それではない。
天孫降臨であって、それではない。
そもそも伊勢神宮に御坐すのは、女神である天照大御神と豊受大御神ではないか。
「西洋に追いつけ追い越せ」の過程で、屈辱的な思いを呑み込んでまで上っ面の西洋化を取り入れた反動で東洋独特の思想(儒教)に固執した結果の、それではないか。
神話は時に残酷なものを含むとしても、男子を産めなかったという一点で存在を否定され心を病むまで追いつめられた皇太子妃や、男子でないというだけで存在を無いものとするため罵詈雑言を向けられた東宮の一粒種の姫の物語を、神代からの神話に如何に記すのか。
それが罷り通る物語はもはや、性別のない五柱と男女対となる五組十柱を祖とする神話に連なるものではないのではないか。
それが罷り通る世界はもはや、伊勢神宮とは世界を別にするのではないか。
そのような物語・世界には、「かのように」の便宜を以てしても、頭を垂れることは出来ないのではないか。
とはいえ、このように直截にものを書いてしまう私は、まだまだ修行が足りないのかもしれない。
深代惇郎の天声人語によると、大隈内閣で司法相をした尾崎行雄は、第二次世界大戦後に皇居から呼ばれ31年ぶりに天皇にお会いした折、狂歌一首を奉呈している。
『今日は御所 昨日は獄舎 明日は又 地獄極楽 いづち行くらん』
『尾崎は戦争中、東条内閣の手で不敬罪として起訴されたが、この起訴には勅許が必要だった。そのことを暗に読み込んだのだろうが、この一首を見て、天皇は笑い声を漏らされたそうだ』
狂歌に諸々を託す鋭さも、それを全て承知で笑い声に変える度量も、ありはしない。
ブログをはじめて一年、まだまだ修行の日々は続く。