何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

どちらを向けば良いのか

2016-02-28 01:00:07 | 
例年なら天ぷらに味噌作りにと楽しめる蕗の薹が、今年は数個しか採れなかったので、昨晩天ぷらにして食した。
これで、完全に次の季節を迎えてしまったと感じることは、辛くて仕方がないが、蕗の薹の独特の苦みはやはり美味しい。
味覚からも季節の変化を感じて又「時間論」を思い出したが、今年は閏年でもあるので、それを暦という点から書いた「五郎治殿御始末」(浅田次郎)を読み返してみた。

「14歳のための時間論」(佐治晴夫)には、時間について正体が分からないまでも『時間の経過を測る道具』として天体が使えること、そこから生まれたのが暦だとして、太陽暦と太陰暦について述べられていた。(『 』引用)
太陽暦とは、『地球が太陽の周りを一回りする時間を基準にして決められます。一回りすれば、太陽に対する地球の位置は元に戻ります。ですから、太陽からの光の当たり具合も同じなので同じ季節になります』
太陰暦とは、『地球の周りを回っている月の満ち欠けを基準にした暦です。』『月は、地球の周りをおよそ29.5日かけて回っていますから、それが月の満ち欠けの周期にもなります。』
『しかし、月は地球の周りを回り続けながら、その一方で、地球はその月を連れたまま太陽の周りを動いています。ですから、太陽に対しての地球の位置によって起こる季節の変化と月の満ち欠けが上手く合わないことがあり、現在の社会では主に「太陽暦」が使われています』 

現在では広く太陽暦が使われているが、月の満ち引きによる太陰暦は漁業に便利であり、二四節気は農業の目安であることからも分かるように、暦は土地や習俗にあわせて使われ、いずれを使うにせよ、それぞれ精度を上げる努力は積み重ねられてきた。このあたりは、「天地明察」(冲方丁)に詳しい。
(参照、「合うこともあり、合わざることもあり」 「時と空間を違えて傷つく権威」 「南十字星を見て参れ」

日本の農業や漁業に役立ち人々にも親しまれてきた暦・時は御一新を境に突如変えられるが、その混乱を描いているのが、「五郎治殿御始末」に収録されている「西を向く侍」「遠い砲音」だ。
それまでは、およそ二時間おきに刻まれる時間で暮らしてきた人々が、突如分単位での行動が求められた時の困惑も大きかったが、太陰暦のをグレゴリオ暦に改めることに付随して「12月2日を大晦日にし3日を新年とする」との命による混乱も大きかった。
師走に掛取りをしていた商人や人々は、師走が突如二日だけになったのだから、堪らない。

この混乱に立ち上がったのが、『世が世であれば必ずや出役出世を果たすにちがいない異能の俊才』と誉れ高い、成瀬勘十郎だった。
歴法の専門家として幕府の天文方に出役していた成瀬は、いずれその職能をもって新政府に出仕することになっていたが、待てど暮らせど出仕の命はこない。
『拙者は、そべてに甘んじて参った。たとえ武士には耐え難い泥水でも、世のためと思えばこそ目をつむって飲み干して参った。天長様の世でも公方様の世でも、正しい暦を作る者がおらねば、民百姓は困ると思うたればこそじゃ。御同輩の多くは上野の戦で死に、函館まで落ちて戦い、あるいは公方様のお伴をして駿河に向かった。だが拙者には、さような安易な道は許されぬ。』
正しい暦を作る者がおらねば、民百姓が困ると思えばこそ、御一新後も屈辱に耐え、5年という長きの待命の間も研鑽を積んできた勘十郎だったが、明治五年11月8日に突然発布された「(天文方の叡智の結晶である)「天保暦をグレゴリオ暦へ改める」という改暦詔書は、勘十郎自身の存在を否定しただけでなく、庶民生活を大混乱に陥れた。
事ここに至り、勘十郎は立ち上がり、文部省に談判に出向く。  

『暦は百姓町人の暮らしの支えでござりまするぞ。百姓は暦に順うて田を植え、種を蒔き、村の祭をいたしまする。町人はやはり暦に順うて銭の収支を計りまする。その大切な暦を、かくも性急に改変せしむるとは、国民の国家に寄する信を裏切ることであると思われませぬのか』と説く勘十郎。
一方で、天保暦に誇りをもちながらも、開国した日本が西洋諸国と外交通商関係を結ぶには統一の暦にする必要があることも勘十郎は理解していたので、『西洋暦との誤差ならば、当面は外交官と貿易商だけが承知しておればよろしい』とも説得するが、新政府方は聞く耳をもたない。
その生臭い理由も、勘十郎は見破っていた。
12月を一日・二日だけにすれば、12月分の給与を節約できる。そのうえ翌年(明治6年)は旧暦ならば閏月があったため一年は13か月となるところだったが、暦改変により12か月となるため、これまた一月分の給与を節約できる。つまり旧暦と比較すれば都合二か月分の給与が節約できるのだ。

「暦は百姓町人の暮らしの支えであり、その大切な暦の性急な改変は、国民の国家に寄する信を裏切りだ」という勘十郎の真っ当な意見は、西洋への迎合と損得勘定に凝り固まった新政府には届かない。

もう一つ勘十郎が許せないのは、天皇の名の許に渙発される詔書に科学的な謬りがあることだった。
「天地明察」にも書かれているように、中国から学んだ天文学をもとに作る暦はその緯度の違いから誤差が生じるものではあったが、日本の民百姓のためにと天文方が叡智を結集して作ったものだった。それを、西洋に合わせるためだけに変え、しかも謬が多い暦を天皇の名の許に渙発されていることが勘十郎は許せなかった。
『天長様は神ではござらぬ。しからばかような暦算の商才も、ましてや百姓町人の暮らしぶりなども、おわかりになろうはずはござらぬ。今後、謬てる軍官の担ぎを天長様の御名の許に公布せしむる愚を犯し続ければ、国家は滅びまする。西洋の方に準ずる世は趨勢ではござるが、日本政府はあくまで固有なる日本人のために、政を致さねばなり申さぬ。外交や交易、ましてや財政難を理由に突然の改暦をなさしめて国民を混乱に陥れるなど、いかにも小人の政にござる』

科学でもあり精神文化でもある暦にも及んだ卑屈なまでの急激な西洋化による歪みについては、これまでも何度か考えてきたが、これからも考えていかねばならないと思っている。
(参照、「「かのように」を超えた処」 「「かのように」を要する時代」 「永遠の今を生きる 中庸」

それはともかく、西洋化の趨勢は勘十郎の説得で変わるものではなく、しかしその流れにも乗ることを良しとしない勘十郎は、刀を売り払い田舎の妻子のもとへ下る決意をするところで、物語は終わるが、表題の「西を向く侍」とは、『一年が365日と定まり、大の月は、一、三、五、七・・・ああ、わからぬ』と嘆く婆様に勘十郎が言った言葉だ。
『西向く士、というのはいかがでござるか。二、四、六、九、武士の士は十と一でござろう』 と。
(二、四、六、九、士(武士の士で十一)晦日が三十日、それ以外は三十一日ということ)

価値観が一変してしまった御一新に途惑い背を向ける武士たちを描いた「五郎治殿御始末」だが、価値観が一変するときに人が直面する存在意義について等、後書きには書かれている。そのあたりについては、つづく