「どちらを向けば良いのか」で、価値観が一変してしまった御一新に途惑い背を向ける武士たちを描いた「五郎治殿御始末」(浅田次郎)には、価値観の変化と存在意義について書かれている後書きがあると書いた。
「五郎殿御始末」あとがきより
『武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった。軍人であり、行政官でもあった彼らは、無私無欲であることを士道の第一と心得ていた。翻せば、それは自己の存在そのものぬ対する懐疑である。無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった。
武士道とは死ぬこととみつけたりとする葉隠の精神は、実はこの自己不在の懐疑についての端的な解説なのだが、あまりに単純かつ象徴的すぎて、後世に多くの誤解をもたらした。
社会を庇護する軍人も、社会を造り斉(ととの)える施政者も、無私無欲でなければならぬのは当然の理である。神になりかわってそれらの尊い務めをなす者は、おのれの身命を惜しんではならぬということこそ、すなわち武士道であった。
人類が共存する社会の構成において、この思想はけっして欧米の理念と対立するものではない。もし私が敬愛する明治という時代に、歴史上の大きな謬りを見出すとするなら、それは和洋の精神、新旧の理念を、ことごとく対立するものとして捉えた点だろう。』
明治時代に和洋の精神・新旧の理念を悉く対立するものとして捉えたという事の裏を返せば、それは前の時代の武家の時代が如何に盤石であったのかという証左なのだと思うが、その盤石な武家の時代にあって、自らの存在に懐疑心をもっていた武士という視点は新鮮だ。
武士もいろいろで二刀を誇示するだけの者も多かったので、浅田氏のように『無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった』と言い切るのは難しいと感じるが、「武士道とは死ぬこととみつけたり」で有名なあの葉隠の武士道の精神についての浅田氏の論考には、大いに感じるところがあったのだ。
ところで、この葉隠で有名な佐賀藩の藩士であったのが、雅子妃殿下の御先祖にあたる方々だ。
雅子妃殿下の高祖父・古賀喜三郎氏は海軍予備門(現在の海城中学・高等学校)の創設者である。海軍予備門設立にあたり、宮内省の土地が下賜されたのは、創設者である古賀喜三郎氏が幕末から有栖川宮殿下と親しく、有栖川宮殿下はじめ他の皇族方の御協力を得ることができたからでもある。(他にも古賀氏の交友関係を通じて、西郷従道や渋沢栄一や錚々たる学者の協力を得て、設立されたと云われている)
この古賀喜三郎氏の娘婿となるのが、同じ佐賀藩出身で海軍兵学校を全教科首席で卒業し明治天皇に拝謁のうえ日本刀一振りを賜っていた江頭安太郎中将(雅子妃殿下の曽祖父)だ。ちなみに、江頭安太郎氏の御子息・豊(雅子妃殿下の祖父)に娘寿々子を嫁がせたのが南部藩士の山屋他人海軍大将(東宮御用掛なども歴任)である。山屋大将の妻貞子は、尾張藩士であり後に鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司となる丹羽与三郎房忠の娘であり、長男・太郎は伏見宮博恭王付武官を務め高松宮親王殿下の日記『高松宮日記』(昭和4年2月8日)には「山屋大尉」と記されている。
かのように雅子妃殿下の御先祖にあたる方々は、幕末・維新の頃から海軍を基点に皇族方や政財界の中枢人物と関わっておられ、いわば明治初期に既に完全に日本の上流社会に存在されていたのだが、現在それを喧伝されることはない、それどころかネットでは不届きな捏造与太話が流布されている。
捏造与太話などは歯牙にもかけず泰然と毅然とされているのは、確固たる自信のあらわれでもあるだろうが、この度「葉隠にある武士道」を読み、深く納得できるものがあった。
『武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった』『社会を庇護する軍人も、社会を造り斉(ととの)える施政者も、無私無欲でなければならぬのは当然の理である。神になりかわってそれらの尊い務めをなす者は、おのれの身命を惜しんではならぬということこそ、すなわち武士道であった。』を旨とし、武士の世であった江戸時代にあってさえ、武士という存在に懐疑的であったゆえに勤勉であった佐賀藩士。その血を脈々と継いでおられるために、自己の存在を殊更に誇示するようなことを良しとされないのだろう。
謙譲の美徳はおろか恥の文化すら廃れてしまった感がある現在の日本にあっては、「嘘も百回言えば本当になる」的浅はかな風潮が蔓延しているので、嘆かわしく心配であるが、幕末から続く高い志を受け継ぐ若者を育てる教育が今も守られており、そこで高い志を培った若者が次の時代のリーダーとなることを強く願っている。
海城中学・高等学校のホームページに記される古賀喜三郎氏の業績と志
http://www.kaijo.ed.jp/about/message/ より
創立者古賀喜三郎(1845-1914) は、幕末から明治維新へ、そして19世紀から20世紀へと変革の時代を駆け抜けた人物でした。
佐賀藩の若き軍人として活躍していましたが、文久4年20歳の時、藩の修習生として長崎に来航していた英国軍鑑に派遣され、英国海軍士官からの教育を受ける機会を得ました。また明治13年36歳の時には北米への遠洋航海に従事し渡米、我が国と米国の圧倒的な国力の差を、身をもって体験しました。
このような経験から世界に自が開かれ、多くの人々が藩という意識のまだ強い時代に、国家としての日本を意識しました。そして、我が国が世界の国々の中で発展してゆくためには、優秀な人材を育成することこそが急務だと考え、海軍を退役して海城学園の前身である海軍予備校を設立しました。
創立者は藩を超えて国家を意識しましたが、今21世紀を生きる我々は、国家を超えて地球を意識しなければなりません。将来解決すべき課題は、国家の枠を超えて地球規模の広がりをみせているからです。地球上に存在するあらゆる生物が、将来にわたって安心安全に生存するための準備は、今から始めなければなりません。
では、我々は今何をするべきなのでしょうか。
「五郎殿御始末」あとがきより
『武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった。軍人であり、行政官でもあった彼らは、無私無欲であることを士道の第一と心得ていた。翻せば、それは自己の存在そのものぬ対する懐疑である。無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった。
武士道とは死ぬこととみつけたりとする葉隠の精神は、実はこの自己不在の懐疑についての端的な解説なのだが、あまりに単純かつ象徴的すぎて、後世に多くの誤解をもたらした。
社会を庇護する軍人も、社会を造り斉(ととの)える施政者も、無私無欲でなければならぬのは当然の理である。神になりかわってそれらの尊い務めをなす者は、おのれの身命を惜しんではならぬということこそ、すなわち武士道であった。
人類が共存する社会の構成において、この思想はけっして欧米の理念と対立するものではない。もし私が敬愛する明治という時代に、歴史上の大きな謬りを見出すとするなら、それは和洋の精神、新旧の理念を、ことごとく対立するものとして捉えた点だろう。』
明治時代に和洋の精神・新旧の理念を悉く対立するものとして捉えたという事の裏を返せば、それは前の時代の武家の時代が如何に盤石であったのかという証左なのだと思うが、その盤石な武家の時代にあって、自らの存在に懐疑心をもっていた武士という視点は新鮮だ。
武士もいろいろで二刀を誇示するだけの者も多かったので、浅田氏のように『無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった』と言い切るのは難しいと感じるが、「武士道とは死ぬこととみつけたり」で有名なあの葉隠の武士道の精神についての浅田氏の論考には、大いに感じるところがあったのだ。
ところで、この葉隠で有名な佐賀藩の藩士であったのが、雅子妃殿下の御先祖にあたる方々だ。
雅子妃殿下の高祖父・古賀喜三郎氏は海軍予備門(現在の海城中学・高等学校)の創設者である。海軍予備門設立にあたり、宮内省の土地が下賜されたのは、創設者である古賀喜三郎氏が幕末から有栖川宮殿下と親しく、有栖川宮殿下はじめ他の皇族方の御協力を得ることができたからでもある。(他にも古賀氏の交友関係を通じて、西郷従道や渋沢栄一や錚々たる学者の協力を得て、設立されたと云われている)
この古賀喜三郎氏の娘婿となるのが、同じ佐賀藩出身で海軍兵学校を全教科首席で卒業し明治天皇に拝謁のうえ日本刀一振りを賜っていた江頭安太郎中将(雅子妃殿下の曽祖父)だ。ちなみに、江頭安太郎氏の御子息・豊(雅子妃殿下の祖父)に娘寿々子を嫁がせたのが南部藩士の山屋他人海軍大将(東宮御用掛なども歴任)である。山屋大将の妻貞子は、尾張藩士であり後に鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司となる丹羽与三郎房忠の娘であり、長男・太郎は伏見宮博恭王付武官を務め高松宮親王殿下の日記『高松宮日記』(昭和4年2月8日)には「山屋大尉」と記されている。
かのように雅子妃殿下の御先祖にあたる方々は、幕末・維新の頃から海軍を基点に皇族方や政財界の中枢人物と関わっておられ、いわば明治初期に既に完全に日本の上流社会に存在されていたのだが、現在それを喧伝されることはない、それどころかネットでは不届きな捏造与太話が流布されている。
捏造与太話などは歯牙にもかけず泰然と毅然とされているのは、確固たる自信のあらわれでもあるだろうが、この度「葉隠にある武士道」を読み、深く納得できるものがあった。
『武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった』『社会を庇護する軍人も、社会を造り斉(ととの)える施政者も、無私無欲でなければならぬのは当然の理である。神になりかわってそれらの尊い務めをなす者は、おのれの身命を惜しんではならぬということこそ、すなわち武士道であった。』を旨とし、武士の世であった江戸時代にあってさえ、武士という存在に懐疑的であったゆえに勤勉であった佐賀藩士。その血を脈々と継いでおられるために、自己の存在を殊更に誇示するようなことを良しとされないのだろう。
謙譲の美徳はおろか恥の文化すら廃れてしまった感がある現在の日本にあっては、「嘘も百回言えば本当になる」的浅はかな風潮が蔓延しているので、嘆かわしく心配であるが、幕末から続く高い志を受け継ぐ若者を育てる教育が今も守られており、そこで高い志を培った若者が次の時代のリーダーとなることを強く願っている。
海城中学・高等学校のホームページに記される古賀喜三郎氏の業績と志
http://www.kaijo.ed.jp/about/message/ より
創立者古賀喜三郎(1845-1914) は、幕末から明治維新へ、そして19世紀から20世紀へと変革の時代を駆け抜けた人物でした。
佐賀藩の若き軍人として活躍していましたが、文久4年20歳の時、藩の修習生として長崎に来航していた英国軍鑑に派遣され、英国海軍士官からの教育を受ける機会を得ました。また明治13年36歳の時には北米への遠洋航海に従事し渡米、我が国と米国の圧倒的な国力の差を、身をもって体験しました。
このような経験から世界に自が開かれ、多くの人々が藩という意識のまだ強い時代に、国家としての日本を意識しました。そして、我が国が世界の国々の中で発展してゆくためには、優秀な人材を育成することこそが急務だと考え、海軍を退役して海城学園の前身である海軍予備校を設立しました。
創立者は藩を超えて国家を意識しましたが、今21世紀を生きる我々は、国家を超えて地球を意識しなければなりません。将来解決すべき課題は、国家の枠を超えて地球規模の広がりをみせているからです。地球上に存在するあらゆる生物が、将来にわたって安心安全に生存するための準備は、今から始めなければなりません。
では、我々は今何をするべきなのでしょうか。