何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

煩悩具足せる凡夫なり①

2018-02-03 12:00:00 | ひとりごと
京都へ行ってきたのだが、仕事がらみなので、名所旧跡美味しいもの巡りというわけにはいかない。
せめて一つぐらい京都らしいところをと、久しぶりに駅前の東本願寺にお参りしてきた。
東本願寺は、云わずと知れた浄土真宗の本山で、知恩院・浄土宗に御縁を頂いている我が家とは、宗派を異にするのだが、東本願寺はいつ訪れても、いいお寺だ。

一頃、東本願寺に凝った時があった。

我が家は知恩院に御縁を頂いているので、年に数回はお参りするのだが、その足が重く感じられる時期があった。
それは、ある電器メーカの創業者が寄贈した大きな太鼓が、御影堂でキンキラ金の光を放っていた頃だ。
あれを見る度、「地獄の沙汰も金次第」という言葉が浮かび辟易としたものだが、あのキンキラ金に中てられた目には、東本願寺の渋さは、心地よかった。
その後、線香の煙のおかげかキンキラ金が いい塩梅に燻されるに従い、私の東本願寺参りは遠のいていったのだが、先日久しぶりにお参りした東本願寺は、やはり いいお寺だった。

京都駅からつづく地下道の最北(七条)出口から地上へ上がると、すぐ目の前に、東本願寺の白い土塀が目に入るのだが、そこには心に残る言葉が掲げられている。

東本願寺の佇まいが好きだと云いながら、親鸞というと悪人正機説しか知らないので、この「今、いのちがあなたを生きている」について東本願寺のHPをあたってみた。
我流で解釈するのは憚れるが、HPを読み解くに、「今、いのちがあなたを生きている」とは、「太古の昔から伝えられる’’南無阿弥陀仏’’(の教え)が、(過去も當来も含んだ)今現在のわたし(の中)に生きている」ということのように思われる。
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/radio/detail22_01.html

そのように理解した時、思い浮ぶ法話がある。
東本願寺の宗祖 親鸞聖人が師と仰いだという法然上人の法話・一紙小消息だ。
久しぶりに一紙小消息を聞きながら、東本願寺の写真を眺めようと思う。

<一紙小消息>
末代の衆生を、往生極楽の機にあてて見るに、行すくなしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし。
罪人なりとても疑うべからず罪根ふかきをもきらわじと宣えり。
時くだれりとても疑うべからず法滅以後の衆生、なおもて往生すべし況や近来をや。
我身わろしとても疑うべからず、自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりと宣えり。
十方に浄土おおけれど西方を願うは十悪五逆の衆生の生るる故なり。
諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは三念五念に至るまで、みずから来迎し給う故なり。
諸行の中に念仏を用うるは、かの仏の本願なる故なり。
いま弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成ぜずと云う事あるべからず。
本願に乗ずる事は、信心のふかきによるべし。
うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心を発して、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生まれがたき浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり。
罪は十悪五逆の者も生ると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。
罪人なお生る、況や善人をや。
行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間に修すべし。
一念なお生る況や多念をや。
阿弥陀仏は、不取正覚の言を成就して、現に彼の国にましませば、定んで命終の時は来迎し給わん。
釈尊は善哉、我が教えに随いて生死を離ると知見したまい、六方の諸仏は、悦ばしき哉、我が証誠を信じて、不退の浄土に生ると悦び給うらんと。
天に仰ぎ、地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀の本願にあう事を。
行住坐臥にも報ずべし、かの仏の恩徳を。
頼みても頼むべきは乃至十念の詞。
信じても、猶信ずべきは必得往生の文なり。

つづく