何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

プレイボール 人生③

2018-02-14 23:25:05 | 
「プレイボール 人生①」 「プレイボール 人生②」より

万年補欠で小学校最後の試合にはベンチにすら入ることができなかった息子に、監督である父は「中学校の部活はどうするのだ?」と訊ねるのだが、息子の答えに迷いはなかった。
「野球部、入るよ」
居た堪れない母は 他のスポーツを勧め、父は「レギュラーは無理だぞ、三年生になっても球拾いかもしれないぞ」と言うが息子の決意に変わりはなかった。
『だって、僕、野球好きだもん』(『 』「卒業ホームラン」(重松清)より)

ねえ君よ
文武両道に悩みながらも、より野球に比重をかけて頑張っていたのに、ベンチ入りさえ難しいと分かった頃の君には、かける言葉がなかったのだが、
いつの間にか自分で消化し、最近では「だって野球が好きだもん」というスタンスで、楽しみながら一生懸命頑張るようになっている君よ
いつまで、「好きだもん」が通用するのだろうね

いつまでが、夢の時間なんだろうね
ここからの問いは、寧ろ私の問題なのだと思う。
「ゲームセットにはまだ早い」(須賀しのぶ) の帯には、『戦力外なんかじゃない。オレたち、まだまだいけるじゃん!』と大文字が踊っているが、出版社のサイトの紹介文にも興味をかきたてられるものがある。

<幻冬舎 話題作が続々登場幻冬舎の本>「ゲームセットにはまだ早い」より引用
若いからって、夢をもたなくちゃいけませんか? 大人になったら、夢をあきらめなきゃいけませんか?
感動必至の大人のための青春小説。 プロ野球選手になりそこねるも今もその夢をあきらめきれない高階圭輔。嫌々会社の野球チームのマネージャーに任命された無気力な女子・安東心花。家族を養う父親と、弱小チームの主将という立場の狭間で悩むベテランエースのクニさん、将来を期待されるも、身体も心もボロボロになり二度と投げられなくなってしまった元プロ野球選手の直海隼人。 そんな寄せ集めのメンバーが、個性豊かな監督・片桐のもとで、自らの再生を試みる。 野球を知らない人にも120%楽しめる、大人のための青春小説!』 http://www.gentosha.co.jp/book/b8182.html

サミュエル・ウルマンは「希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる」と云うけれど、
叶わない希望を抱き続けるのは、しんどいね

プロ野球選手になり損ね 潜り込んだ先の社会人野球のチームも企業の業績悪化のあおりで閉鎖されるに及び、慟哭のなか覚悟を決めたときの言葉は、胸を抉られるようで、痛い。
『大人になれ。もう、夢をみる時間は終わったんだと』 (『 』「ゲームセットにはまだ早い」より)

だから、希望にも夢にも、賞味期限があるのかもしれない
だから、希望にも夢にも、本来は前提条件が必要なのかもしれない

「野球を楽しめば、爆発的に伸びる」と言う監督に、マネージャーは「(野球を本気で楽しむためには)野球以外全て擲つ覚悟が必要か」と問うのだが、その問いに対する監督の答えは、「楽しめば」という言葉とは裏腹に、厳しい。
『擲ってもいいけど~略~ ちゃんと楽しむには、いくつか前提が必要なんだ。~略~
努力はもちろん、前提となる能力と環境が揃ってなければ、楽しむことはできない』

目標を掲げる者にとって、キツイ努力を続けることは、それほどキツイことではない。
だが、キツイ努力を楽しむためには、そもそも能力と環境が必要なのだという。
これは、おそらく肝心要のものが欠如していた為に上手くいかなかった私にとって、かなりキツイ言葉なのだが、そんなキツイ現実を突き付ける監督が、弱りきった選手にかける言葉に、も一度励まされる。

『野球の試合開始の合図は、ボールで遊ぼう(プレイボール)、だろう。
 そこからやってみようじゃないか』

夢や希望には、賞味期限も前提条件もあるだろうが、実は変幻自在に姿を変えるという特徴がある、と思う。
本気で努力を傾けた夢や希望は、仮に一直線には叶わなかったとしても、廻りまわって、違う形であれ楽しめることもある、と思う。

その廻りまわる過程を、応援する人でありたいと今の私は思っている。

「卒業ホームラン」は、ホームベースという言葉を作った人への感謝の言葉で締め括っている。
野球とは、ホーム(家)を飛び出すことで始まり、ホーム(家)に帰ってくる回数を競うスポーツなのだ、と。
皆で、ホームインしよう、と。

頑張る人が、安心して飛び出し帰って来れるホームでありたい、今はそう願っている。

おそらく、もう少しつづく