何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

煩悩具足せる凡夫なり③

2018-02-06 12:00:00 | ひとりごと
「煩悩具足せる凡夫なり①」「②立春」より

阿弥陀堂から御影堂への廊下も、相当に年季の入った素晴らしいものだが、こちらの廊下は、どうも鳴っていないように思われた。
こう書くのは、昨年末「城や寺の’’うぐいす張り’’は実は忍び返しではない」という記事に、「廊下が鳴るのは、単に金具などが緩むなどの老朽化の所為である。よって、修理を終えれば鳴らなくなるし、建築・再建から100年も経てば 鴬張りとは認定されていなかった廊下も鳴るようになる」 と書かれていたからだ。
(参照、「京の都の珍(苦行)道中①」
  
もっとも、この廊下を歩いている時は、そこに展示されている毛綱や大橇(御影堂・阿弥陀堂の再建・修復のために寄進された)が示す信仰心と宗教の力に圧倒されていたので、かすかな音色に気づかなかったのかもしれない。(参照、東本願寺ホームペーシ http://www.higashihonganji.or.jp/about/midokoro/) 

とにかく、東本願寺は何もかもが、巨大に感じられる。
それは、駅前のビルや ひょろりと高い京都タワーの近くにあることで、却ってその大きさと重厚さが強調されているのかもしれないが、それ故に、現代のモノ・者の脆さ儚さも示しているように思われる。

 
「他力」(五木寛之)によると、法然が「やさしく」説いた往生の修行の道を、親鸞がより「ふかく」究め、親鸞が「ふかく究めた」信仰を、蓮如が「広く」人々に手渡そうと生涯をかけた、という。
確かに、「善人なほもて往生をとぐ、況や悪人をや」(歎異抄)で有名な親鸞の悪人正機説の原型は、法然の「善人尚以て往生す、況んや悪人をや」(法然上人伝記 醍醐本)に見出せるし、蓮如の「うけがたきは人身 あいがたきは仏法なり」の原型は、法然の「うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心を発して、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生まれがたき浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり」(一紙小消息)に見出せる。
・・・などと、「他力」と検索の賜物をクドクド書いていても、未だ’’他力’’について理解は深まっていない。

東本願寺振り返り写真の最終回となる次回までに、少しでも’’他力’’を理解できるよう、「他力」を読み返しておこうと思う・・・つづく