中井悠美子(悠石)「四季の絵文日記」 2011/9/24~

四季を語る「絵文」と、日常を織り交ぜた小さな日記。
ご訪問頂き有難うございます。ご縁に感謝を!

Vol. 326 郷土の偉人・その(6)

2013年04月17日 13時07分28秒 | 郷土の偉人
        

          夏が来れば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空
              霧の中に うかびくる やさしい影 野の小径
           水芭蕉の花が 咲いている 夢みて咲いている水のほとり
                 石楠花色に たそがれる
                          はるかな尾瀬 遠い空

    子供の頃よく口ずさんでいた歌。水芭蕉の花が「咲いているのところを・・・「枯れている」なんて替え歌にしたりして^-^

    さて、この 「尾瀬」 を今に残した 平野長靖さんのことを今日は。
    1935年生まれ  ご健在であれば77歳。わたくしの一回り上です。
    京大卒業後北海道新聞社に入社。が、家業を継ぐ予定であった弟が死去。
    祖父の残した長蔵小屋の経営者となるのです。

    

    ところが、その尾瀬。昭和20年代から、計画のあった産業道路建設が41年頃から着工され、
    その影響で美しい清水が枯れてしまうなどの影響が出始めたのです。
    長靖は、美しい尾瀬を残すため、志を同じくする人たちと、時の環境庁長官に直訴!
    紆余曲折を経て、工事は中止!政府を動かしたのですから、それは並大抵のことではなかったことでしょう。

    そんな様々な心労が、積もり積もっていたのでしょうか・
    工事の中止が決まった同じ年、1966年12月。
    尾瀬からの下山途中に三平峠で遭難、凍死!享年36才。

    現在は4代目の太郎さんが長蔵小屋を引き継いでいるとのことです。

       

    後生に残したい かけがえのない宝物
    現在、尾瀬には、大型バスで観光客が大勢訪れるようになり
    微妙な自然生態系が危機に瀕しているという・・・・のです。

    立ち止まって、皆で考えてみたい・・・
    そんなお話しでした・・・

    平野長靖を語らずして、尾瀬についてのべるわけにはゆかぬ。

     ←お若い頃の平野ご夫妻
    
    記事は、検索・・・参考にいたしました。

    皆様ご訪問有難うございました・・・・・・

    


   

    
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Vol. 239 郷土の偉人・その(5)

2012年10月09日 19時07分04秒 | 郷土の偉人
   

   これは岡山県和気郡和気町藤野・・・にある和気清麻呂神社!この地が生誕の地。
   和気氏は第11代垂仁天皇の第5皇子の末裔であるとか。

   和気清麻呂・・・733年・生

   成人した後、奈良の都に上京し、武官となります。
   姉の広虫も上京・・・

                
         和気清麻呂           姉の広虫・・・多くの孤児を救った功績をもつ。
   
   さて、和気清麻呂と言えば弓削道鏡。
   清麻呂は道鏡との争いに敗れ(皇位争いに巻き込まれ)鹿児島に追放!
   途中追っ手に「足の筋」を切られるのです・・・
   が、その時、突如現れた「300頭の猪」に助けられて宇佐神宮にわたり、治癒することが出来たのであるとか。

   その後、道鏡は失脚。平城京に戻された清麻呂は、
   平安京遷都に尽力。多大な貢献を果たしたと言うことです。

   さて、なぜ今回清麻呂の話????
   実は、中井が檀家になっているお寺のある地を「和気」と称します。
   由来は、清麻呂の「崩御の地」であるという言い伝えに寄るそうなのですが。
   しかしながら、どこをどう探してもそのような記述は見あたらなく???
   「和気清麻呂崩御の地」の石碑も建てられてはいますが・・・ホント?

   お墓参りで・・・そのことを思い出しまして。
   また、清麻呂神社は生まれ故郷からも近く・・・アップしてみました・・・ご興味ないかも(笑)ですね!

   余談ですが。
   神社の入り口に鎮座するのは狛犬ではなく、猪であるのがおかしいですね。
   霊猪・・・神の使いとして猪が置かれているそうです。

   干支・・・亥・・・のわたしとしては、ちょっと嬉しい!

           

   それにしても・・・ちょっと・・・強面ですよね!

   皆様ご訪問有難うございました・・・・

   

   
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Vol. 225 郷土の偉人・その(4)

2012年08月27日 20時14分12秒 | 郷土の偉人
      

   何を成した人か、ご存じなき人は、おそらくいない・・・「吉田松陰」
   山口県萩市・・・出身の偉人!
   後に4人の総理大臣を輩出した。基となった方だと私は、固く信じています。

   1830~1859・・・・29歳という若さで亡くなったのですねえ!
   その短い生涯の中で・木戸孝充、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文など
   多くの偉人を育て上げたのですから
   知識、教養、思慮、魅力、説得力、行動力、強い精神力を兼ね備えた方だったのでしょう。

   安政5年(1858)のころ倒幕を計画したが頓挫し、捕らえられ。
   やがて大老・井伊直弼による「安政の大獄」がはじまり・・・
   安政6年・・・斬首!

   獄中書き残した「留魂録」
   冒頭に記された辞世の句
   身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
   家族には「永訣書」を残しこちらに記された   
   親思う心に勝る親心けふのおとずれ何ときくらん
   も辞世としてしられていますね。

   29歳にして「この奥行きの深さ」多くの名言も残しています。   
    
   

   司馬遼太郎著「世に棲む日日」でその生涯を知ることが出来ます。

   迷い多く、不平や不満も多いこのごろ日日!
   又、新にこの本を読み直して「心」に「大和魂」を取り戻してみたいと思います。

   日日、日日また日日 人生はいつも今から・・・
   

   皆様ご訪問有難うございました・・・・
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Vol. 198 郷土の偉人・その(3)

2012年06月20日 18時18分50秒 | 郷土の偉人
  田中正造・・・現在小学生の間で一番知られている偉人かも知れません。
   国語の教科書で紹介されていますから・・・^-^

   明治天皇に自訴の場面・・・田中正造記念館            田中正造・・・栃木県佐野市・・・1885年生(安政2年)           日本初の公害    栃木県の足尾銅山の鉱毒事件を告発した人です。       栃木県・・・足尾銅山・・・当時日本で有数の銅山であったとか。       絹と銅は日本の大きな収入源であったのでしょう。       しかし、その排煙がもたらす「酸性雨」が辺りの山々の木々を枯らし。       廃液は田、畑から豊かな実りを奪ったのです。       農民の困窮ぶりに心を痛めた正造は・・・何とか救いたいと、議員を辞職。    明治天皇に直訴するも「狂人あつかい」       その後も逮捕、投獄・・・を何度も繰り返しながら、鉱毒問題を訴え続けるのですが・・・           

   渡良瀬川に垂れ流された廃液・・・周辺の村々が、いかに悲惨な状態であったか想像できますよね。
   その後、政府は「谷中村」を貯水池にするべく農民の追い出しにかかるのです。
   元々貧しい人々、何の保証もなく追い出される。。。悲惨さは想像を絶します。

   正造は志半ば、多くの同士に裏切られ続け、赤貧の中で亡くなります。
   1932年・・・満76歳。
   枕元には「日本国憲法」「聖書」「ずた袋の中にちり紙」・・・これだけだったそうです。
   そうして、谷中村は・・・消えたのです。

   その後1973年・・・農民との和解にいたり。足尾銅山は閉山。
   辺りはやっと緑の田野を取り戻すことが出来たのです。正造没後40年にしてやっととは・・・!
   

   正造の名言
   

   真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし

   今の政治家は、この正造の生き様をどう見るでしょうか!
   
   途中で文章の並びがおかしくなりました・・・どうしても直らないので
   読みにくいと思いますが・・・このままに
   皆様ご訪問有難うございました。


   

   
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Vol. 197 郷土の偉人・その(2)

2012年06月18日 20時31分48秒 | 郷土の偉人
   京都の偉人・・・まずは 角倉了以・・・すみのくらりょうい・・・ 水運の父 と呼ばれています。

   角倉家は長年「裏千家」の支援者であり、裏千家12代はこの家からのご養子です。
   従って裏千家にはこの角倉の血も流れていると言うことになります。
   10代さんには子供がなく、11代は他家からご養子を迎えられましたから
   この時点で「千利休」の血は途絶えたことになりますね・・・11代には女子しか生まれず。
   この時代「家督」は男子、しかも長男しか継げなかったのです。そんな訳でご養子に・・・

   余談が長くなりました。さて、その角倉了以・・・本名ではなかったと検索で知りました。
   名字は「吉田」・・・先祖は室町幕府お抱えの「医者」をつとめていたとのこと。
   その後医業で得た財産を元手に「土倉」を営み・・・角倉は運営していた土倉の一つからとったと言うことです。

       
   了以・・・なかなかの強面ですねえ!優しい写真見つかりませんでした。了以邸跡。木屋町二条下ル・・・

   
   「がんこ」の宣伝ではありませが、了以の別邸です。維持が困難になり売却取り壊し寸前に「がんこ」が買い取り。
   鴨川から流れ込む清流も庭も茶室も巨大な石塔もそのままに、お食事処となりました「がんこ二条苑」・・・小島社長有難う。
   高瀬川の注水口・・・はこの邸の中にあるんですよ。残って良かった!

    ←がんこの前辺りの「高瀬川」

   前置きが長くなりました・・・水運の父と呼ばれた了以!
   安南(あんなん・今のベトナム)との貿易で巨額の冨を得た了以は
   1606年から「大堰川・保津川下流」の開削を行います・・・川の底を削って水深を深くしたのですね。

   このことで、丹波からの物資が一気に、難なく京へ運ばれることになります。
   現在、保津川下りが観光として残ったのは、まさに 了以 のおかげなのです。

   続いて「富士川」開削。
   そして「高瀬川」・・・京都→伏見→淀川へ・・という水上交通路を開くのです。
   1604年・・・吉井川・私の故郷を流れる川です・・・この川の運搬船「高瀬舟」をみて
   京都その他の地にこれを流行させたということです。

   人は一代、名は末代さ・・・やはり私財を なげうって ・・・ですよね

   岡山繋がりが出てきたところで・・・お終いです・・・簡単ですみません。

   皆様お付き合い有難うございました。
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Vol. 196 郷土の偉人・その(1)

2012年06月16日 19時47分49秒 | 郷土の偉人
   今日「西村京太郎」トラベルミステリー
   TV・・・なにげなく観ていますと・・・猪苗代湖・・・という言葉が耳に!
   関連して、ふっと「十和田湖」を思い出しました。

   十和田湖といえば・・・和井内貞行・・・小学5年・国語の時間に学んだ偉人!
   郷土の偉人 ですよね!

   
   秋の「十和田湖」美しいですよね!以前一度参りました。吸い込まれるような美しさでした。


   
   和井内貞行・・わいないさだゆき・・・1858年~1922年
            秋田県鹿角市生まれ

   和井内は十和田湖畔にあった小坂鉱山に赴任。
   鉱山労働者に「新鮮な魚」をたべさせたいと・・・養殖事業に取り組みます。
   1881年当時、十和田湖は魚の影すらない死の湖だったそうです。
   火山湖だったのでしょうか?

   養殖を志して22年後・・・失敗を繰り返し、家財をなげうっての血を吐くような努力がやと実るのです。
      ヒメマスです。大きいです

   1905年・・・秋。風もないのに十和田の湖面がさざ波で揺れている?
   それは、産卵のため「ヒメマス」が大挙して、浅瀬に押し寄せていたのです。
   北海道支笏湖で養殖されていた「ヒメマス」の卵を購入。
   5万匹の稚魚を放流して、二年半後のことでした。

   そんなお話しです。

   土地の方々は今でも「ヒメマスの一匹一匹の中に、和井内貞行の情熱が刻み込まれている」
   と、思っていらっしゃるとか・・・

   現在200万人近い観光客が訪れる「十和田湖」
   和井内の功績は計り知れませんよね!

   秋田県小坂町に和井内神社・・・現在も神様として崇められているんですね。

   こういうお話しが好きな私でした・・・・
   

   
  
   

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