貴族から武士の世へ 激動の平安末期を生きた平清盛とその周囲の人々ゆかりの寺院を巡る京都への小旅行は 定期観光BUSで“平安の覇者 平 清盛ゆかりの人物をたずねて”~
長楽寺《建礼門院徳子・安徳天皇》
丸山公園奥の街の雑踏を遮る山腹に建つ長楽寺は 延暦24年(805)伝教大師最澄が創設した天台宗寺院で 室町時代に時宗に改められた
平清盛の娘・建礼門院徳子が出家した寺として知られ 壇ノ浦の合戦で平家が敗れ御歳8歳の安徳天皇(高倉天皇と建礼門院との間に生まれ3歳で即位)は祖母(清盛の夫人)に抱かれ入水 後を追うように入水した母建礼門院は敵軍に捕らわれ 京都に戻されこの寺で髪をおろし出家した 時に29歳であったそうな 亡くしたわが子・安徳天皇を弔うため形見の衣を自ら縫い合わせて作った仏具・幡(ばん)や 源氏の眼をはばかり隠し伝えられたという建礼門院画像 安徳天皇画像がある
長講堂《後白河法皇》
平安時代後期 30余年にわたって院政を敷き 平氏政権との協調・対立の末に平家討伐の命を下すまでの動乱の時代を生きた後白河法皇が 寿永2年(1183)に六条御所に持仏堂を建立したのが起こりとされる
本尊阿弥陀三尊像は重文 両脇侍が蓮台から片足を踏み下げた珍しい姿で 法皇の念持仏であり臨終仏でもあるという
安置されている後白河法皇坐像は江戸時代の肖像彫刻
後白河法皇直筆と伝わる「過去現在牒」には 安徳天皇までの歴代天皇や 平清盛 源義経ら源平の武士から清盛も寵愛した祇王・祇女・仏御前まで 法皇にゆかりのある様々な人物の名が記されていることが興味深い
平等寺《小督局・高倉天皇》
平安時代の貴族・橘行平が因幡国(現在の鳥取県)より虚空を飛んでやって来たと言う薬師如来像を祀る堂を建てたのが起こりで「因幡薬師」の名で親しまれる古刹 高倉天皇から寺名が下賜された
本尊・薬師如来立像(重文)は日本三如来のひとつに数えられる藤原時代の一木造 頭巾を被っているのは非常時に厨子ごと後ろに倒し運び出すためで 幾度も火災をくぐり抜けてきた智恵なのであろうか
六波羅蜜寺《平 清盛》
天歴5年(951)醍醐天皇の皇子であった空也上人が開いた寺
踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也 十一面観音を本尊とする道場に由来し 疫病の蔓延する当時の京都で 観音像を車に乗せて引きながら歩き 念仏を唱え 病人に茶をふるまって多くの人を救ったという
そしてここ六波羅一帯は 貴族から武士の世に移り変わる平安末期に 権勢を誇った平清盛を筆頭とする平家一門の豪壮な屋敷が軒を連ねていた場所で歴史的な舞台であった
宝物館には 経典を手にした存在感のある平清盛坐像(重文)がある 傲慢さはなく穏やかな雰囲気であることが興味深い
そして肖像彫刻の傑作である 口から六体の阿弥陀仏を吐き出す姿が印象的な空也上人立像(重文) がある 6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し 念仏を唱えるさまを視覚的に表現しているのが素晴らしいのだ 6体の小像は針金でつながっているのが面白い
ところで六波羅蜜とは この世に生かされたまま 仏の境涯に至るための6つの修行のことを言うそうな 波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に至ること
6つの 「 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧 」の修行を実践しどちらにもかたよらない中道を歩み 此の岸から彼の岸に……
とうてい未だ未だ行くことはできませんなぁ
朝の小雨はあがり 馬酔木の花から雫が 京の都の春は近いのです