田舎主婦の日日是好日

今日も生きてることに感謝かな。

内裏:光る君へ第19回

2024年05月15日 | 趣味・本・テレビ他

初歩的なようなことばかりですが。

 

内裏について

 

内裏(だいり)とは、

天皇の住居としての御殿のことを言います。

 

794年(延暦13)の平安遷都で作られた内裏は、

960年(天徳4)に全焼しているそうです。

 

里内裏(さとだいり)について

 

平安京内裏の外に、

臨時に設けられた皇居のことで、

多くは、

摂政・関白などの外戚の家をあて、

火災などにあわれた時は、

そこにお住まいになられたようです。

 

京都御所について

京都御所略図

(パンフレットの図が見にくいので宮内庁ホームページよりお借りいたしました)

 

京都御所は

1331年(元弘元年・鎌倉時代)から、

1869年(明治2年)まで、

明治天皇が東京に移られるまでの、

約500年間、

天皇のお住まいとして使われたそうです。

 

現在の京都御所の場所は、

里内裏のひとつ(土御門東洞院殿)とのこと。

 

なお京都御所も、

幾度となく火災にあったこともあり、

建築様式や全体構成は、

時代と共に変化していったとか。

 

数年前に、

京都御所に行っておりますが、

平安遷都で作られた内裏図に比べれば、

敷地は広くも、

建物の数は少なかったです。

 

それにしても、

火災が多い内裏ですから、

ドラマにもそういう様子が描かれるかも。

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第19回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

「後宮へおいでになりたいの」

と、

ききょうはまひろに言いましたが、

後宮は、

天皇の住む仁寿殿(じじゅうでん)の後方にある、

承香(しょうきょう)・常寧(じょうねい)・貞観(じょうがん)・

弘徽(こき)・登華(とうか)・

麗景(れいけい)・宣耀(せんよう)の7殿と、

他5舎との総称だそうです。

(最初の図にあります)

 

登華殿(とうかでん)とは、

皇后・女御などの部屋をさすそうで、

定子のサロンはここでしたね。

 

まひろは登華殿(とうかでん)で定子と対面。

(写真はNHKよりお借りいたしました)

まひろは十二単。

色合いがとても良かったです。 

でも当時の女性が、

天皇に、

政にたいする意見を述べるなんてことは、

ありえないと思うのですが、

このドラマはまひろ(紫式部)ワールドですから、

物語として楽しんでます。

 

画鋲のようなものを故意に置かれるなんて、

陰湿ないじめは、

いつの世もあったんですね。

あの画鋲のようなものは平安期にあったのかな?

釘なのかな?

 

内裏での陣定(じんじょう)の後の騒ぎに、

「そんなに面白いことがあったのか」

なんて言う実資ですが、

道長と伊周の口論については『小右記』に、

あたかも闘乱のようで皆非常を嘆いた

これは源俊賢(みなもとのとしかた)の語った説である

と、

記されてます(青文字は現代語訳)。

実資の存在感いいですね(笑)

 

大国(たいこく)・下国(げこく)について

(図は『紫式部とその時代』43Pより)

 

上図のように、

まひろの父の為時は、

下国である淡路国ではなく、

大国である越前国ですから大抜擢ですね。

ここまだ決定ではなく、

位だけですね(従六位から従五位下に昇格)

(スマホだと見にくくてすみません)

 

ドラマでは、

道長のおかげのように描かれてましたが、

藤原為時には、

得意の漢詩による出世の説話がある。

貴族の人事異動にあたる「除目(じもく)」の際に詠んだ、

一編の漢詩が天皇の心を動かし、

当初は、

最下格国の淡路国守(あわじのくにのかみ)だった任官が、

最上格国の越前国守に変更された

という話もあるのです。

 

しかし、

そういう記述が残ってるからと言って、

これも史実とは限りませんね。

私は歴史に関しては、

疑い深いのです。

 

そして、

久しぶりの藤原4男子の会話。

 

道長と公任は同い年。

斉信は1才下で行成は6才下かな。

 

内裏で道長は、

「帝は民を思う御心あってこそ帝たりえる」

と、

凛々しく言っておりましたが、

友人たちとは随分くだけた会話ですねぇ(笑)

 

なお、

斉信の妹たちは、

皆そろって美女だったらしく、

1人は花山天皇の寵妃(藤原忯子)でした。

 

でも花山天皇は出家した身なのに、

亡き忯子の面影を妹(四女)にもとめて?

斉信の屋敷に通ってたのですね。

 

でも三女の光子は、

伊周(これちか)の想い人なので、

彼女らの屋敷の前に、

立派な牛車(ぎっしゃ)が止まっていれば、

伊周だって、

光子のところへ来たのかと勘違いしますよねぇ。

「美は罪」という言葉もありますが(笑)

罪作りの姉妹たちでした(すみません)。

 

勘違いしたとはいえ、

花山院に矢を射るなんて大事件(長徳の変の始まり)。

 

貴族の乗り物は馬車でなく牛車(ぎっしゃ)

(源氏物語絵巻「夕顔」より借用)

 

ドラマでは、

伊周の弟の隆家が矢を放った描き方でしたが、

従者という説もあります。

 

藤原道隆の嫡男・伊周は、

和歌や漢詩や笛や弓などにも優れ、

眉目秀麗(びもくしゅうれい)な青年で、

叔父の道長より早い出世だったのですが、

これより暗転していきます。

 

一条天皇に寵愛されている定子も、

次々後ろ盾を無くしていくわけですから、

今後が案じられます。

 

 

コメント (22)
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