サイゴンの街はどこかパリの風情も残っていて、異民族の支配者の歴史を継いで、食事も仏・中料理のエッセンスを取り入れ多彩でなかなかよかった。田舎町での唐辛子で味覚をごまかして消毒をかねた日々はあっと言う間に過ぎて、体調が奈落の底に向かっているのを感じた。ファンティエットの異文化に相当のストレスを体が感じているようだ。海辺のやし林からやしの実ジュ-スを楽しんだが、ストロ-はこげ茶でうっすらオリジナルの水色が残っているものだった。その昔、北京の貴賓専用高級レストランのあっと驚いた竹箸の先が黒いのと同じ感覚だ。保身で商法違反を迫る常務のストレスに曝されて、日本での疲労の逃げ口のヴェトナムが更に自律神経に襲い掛かる。写真中央はチャンパの王か将軍か。向かって右は帳簿らしきものを持ってるが。左の人物は顔の後ろにまた顔がオリジナルに見える気味がやや悪い。連れ合いに見せれば、後ろの木々だというが。この石像の由縁の記憶がなくなってしまい、そのうちチェックしよう。チャンパからは奈良時代には仏僧が渡来し、日本とは知られざる交流があることは後で知った。
暇つぶしに、夜トライショ-に乗ってキャバレ-というか、バ-というかそういう店に行った。赤茶けたトタンぶきの家。オ-ドブルと称してスイカが出たが、それはこの店のトイレ横で、お店のお兄さんの真っ黒な手のひらに乗っけてきってきたものだ。ビ-ルは氷割りで、氷が菌だらけで一番危ない。裸電球の店では顔もうっすらしか判らぬ若い女の子たちと乾杯で失礼したが、勘定はボリボリで5千円。5百円あれば、一家族1年分の米代だという。これは写真のチャンパ寺院遺跡を訪れた時、近くの小さな兄弟にせがまれて何気なく渡した小遣いの額。渡した紙幣をにらみと何回となく管理人の顔を見て、家に向かってひたすら走り去った。それを見たサイゴンから同行しきた大学教授が、金額の大きさと明日から起こる兄弟の悲劇を説明してくれた。もう、水汲みの手伝いはなく、遺跡を訪れた異国人には執拗にせびる更に厳しい仕事の毎日となろう。