
10個ぐらい実があるあけびのひとつが割れた。高さは2メ-トル半、柵から1メ-トル位先に。残念ながら、専用タモでも作って行かなきゃ取れぬ
。山栗の季節、小粒ながら美味い。来週は天気も良さそうだから、栗狩りでも。石油が高騰に次ぐ高騰は、一変して資本主義文明が変わる予感は間違いなし。化石エネルギ-が変わると高度な技術の集積のガソリン車は不要になる。電気車からスタ-トは自動車王国の日本崩壊か。これから全てが変わり始めるんだろう。すぐ石油枯渇で映画、マッドマックス状態にはならないだろうけど。19世紀から吐き出した炭素の量を以前に戻すは、原発からでた放射能が低くなる時間とは変わらないみたいだから、原子力が主流か。これから何が中心たるエネルギ-か分からないが、環境破壊は海面水位が5Mまで上昇し、戻らぬ環境になって初めてストップだろう。炭使用の時代から育った身には、残された自然を尋ねることが、健康に一番。ネットで近くの山栗を販売しているところ探そう。

栗といえば九州・大分県の国東を思い出す。国東は大好きでたびたび行ったものだ。10年位前までは行った回数を数えていて40回を超えたのは確認したのだが、数えることに意味があるのかを考えたら馬鹿馬鹿しくなってやめた。
国東の魅力は路傍に佇む石仏を徒歩で訪ねて過ぎし昔をしのぶということだが、季節ごとに趣のある山々や日本の昔の農村風景にも引かれる。
もう10数年前だと思うけど、ある秋の午後。陽は天に高く山郷の秋にしては暖かい。路傍の石仏を探しながら歩いていたとき、道端の農家の庭に立派な栗の木があって、垣根から大きく枝葉が伸びていた。見るとも無く眺めるとイガイガの栗が一杯なっているではないか。
都会育ちの浪人には珍しいので、暫く眺めていたら、少し風が吹いてそのイガイガがポトンと足元に落ちてきた。その後は少し木が揺れると又一つ又一つと落ちてくるので、道端に座り込んた。
道の真ん中に落ちたままになっている栗を見て、焼いたら、蒸かしたらさぞかし美味いだろうなあ!と思いながら、ポットに入れたコーヒーをゆっくりと飲んでの休憩時間。
そのとき、庭から年寄りが出てきて、「何してるんかね?」と問いかける。「いや、ちょっと疲れたから…」と曖昧に答えると、「良かったらお茶でも飲まんかね」と母屋の方を指して招く。
そう…長くなるからもうやめるけど…。
お茶をお新香をご馳走になって、「立派な栗ですねえ」と言ったら茹で栗を出してくれて、挙句に「持ってきな」って言って栗までお土産に貰ってしまった。
もうかなりのご年配だったので、もう鬼籍に入っておられるかもしれないが、暖かな午後のヒトトキだった。
また、寄りますと言って別れたのに、再訪は出来ていない。