山崎 喬

加賀生まれ(金澤)

奥羽廃道は本当に廃道だった

2006年07月25日 19時12分28秒 | Weblog
小山田行きに思い切って訳わからぬ道に突入の結果は、暗い椎茸栽培所を抜けて、暗いぬかるみ道に待つはブヨ。引き返せぬし、先見えぬ山襞歩きは困惑も、下り道に出てホットした。入り口に朽ちた道祖神と思える石の標識あり。嘉永二巳酉年と読めるが、あとは判らぬ。

ゆりが激しく匂う季節になった。蝉、ヒグラシの声が聴ける。
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嘉永 (Unknown)
2006-08-03 21:46:58
石仏は江戸時代に飛躍的に多く作られて今や江戸には10万体を越すなどという説もある。



嘉永というともう安政の手前だったかな?

江戸にもなんとなく風雲急を告げるというか幕藩体制も瓦解が迫っていたというかそういう時代だと言える。



石仏と言っても興味の無い人にはイメージが湧かないだろうからおじぞうさんといっても良いが…キチントした石造の地蔵や観音さんが作られたのは寛文時代までが多い。



それ以降は(当然、嘉永も含まれるが)道祖神などの比較的に簡単な石造が多くなった。



石造のお顔の整ったもの=美人(仏像は男女の別は無いので美人と言う言い方はふさわしく無いが)は寛文を越してはまず、無いと言って良い。



そのあたりはどうもハッキリしているようだが、何故なんだろうか?



やはり立派な石仏を作るにはかなりの金がかかる。かと言ってこの時代には功徳を積む&菩提を弔うなどのために作らないというわけにも行かない。



詳しいことは判らないが寛文時代辺りはまだ、ゆとりがあったということか?
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