或る日の朝。<私>はジゼルを見ようとした。するとたまたまジゼルに話しかけようとして<私>に背中を向けたばかりのアルベルチーヌが見えた。だから<私>が見たのはジゼルの顔ではなくアルベルチーヌの顔でもなくアルベルチーヌの「黒々とした後ろ髪」。さらに陽光の加減でその黒髪は「水からあがってきたときのように光っていた」。<私>は今まで全然知らなかったアルベルチーヌ、以前とはまるで異なるアルベルチーヌに出会ったかのような天啓に打たれ、瞬間的にアルベルチーヌに関するイメージをこれまでとは違った別のイメージヘ置き換える。
「われわれの記憶は、ある人物の写真をショーウィンドーに展示するにあたり、あるときはこの写真、べつのときはこの写真ととり替える店のようなものである。ふつうは最新の写真だけがしばらく人目に触れているのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.529」岩波文庫 二〇一二年)
プルーストは「ショーウィンドー」の「写真展示」を隠喩として用いているかのように読める。けれどもプルーストの方法論として隠喩を用いることはほとんどないということを思い出そう。「われわれの記憶は」まさしく「ある人物の写真をショーウィンドーに展示するにあたり、あるときはこの写真、べつのときはこの写真ととり替える店」だと言って間違いない。にもかかわらず、もし、そんなことをした覚えなど生涯のうち一度もないと言う人がいるとしたら、その人は「嘘つき」だということになるだろう。しかし問題は、なぜ或る人物に関する記憶の系列を「ショーウィンドー」の「写真展示」と等値することができるか、でなくてはならない。プルーストはいう。
「それは過去の一瞬、というだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものかもしれない。むしろ過去にも現在にも共通し、この両者よりもはるかに本質的なものであろう。これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在のものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。ところが突然、ところが突然、自然のすばらしい便法のおかげで、この厳格な法則が無効とされ、停止され、自然がある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与されたのだ。そしてこの巧妙なからくりのおかげで、わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.442~443」岩波文庫 二〇一八年)
記憶というものは或る任意の場面のみを、「それだけを切り離し」、別の場所へ移動させることができるからである。切断可能、再接続可能、置き換え可能、ということが記憶の条件の中にすでに含まれている。ばらばらな諸断片の意識化にあたり、ニーチェが喝破したように、「風習・慣習」が命じる作用が瞬時に適応され偽造=変造を終えたそのすぐ後で始めて記憶は意識にのぼってくる。
「風習とはしかし行為と評価の《慣習的な》方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理もまったくない。そして生活が慣習によって規定されることが少なければ少ないだけ、それだけ一層倫理の範囲は小さくなる。自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを《望む》から、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、『悪い』ということは、『個人的』、『自由な』、『勝手な』、『慣れていない』、『予測がつかない』、『測りがたい』というほどのことを意味している。そのような状態の尺度でいつも測られるので、ある行為が、慣習が命令するからでは《なくて》、別な動機(たとえば個人的な利益のために)、それどころか、かつてその慣習を基礎づけていたまさにその動機自身からなされるときですら、その行為は非倫理的と呼ばれ、その行為をする者からさえそう感じられる。なぜなら、その行為は慣習に対する服従から行なわれたのではないからである。慣習とは何か?それは、われわれにとって《利益になるもの》を命令するからではなくて、《命令する》という理由のためにわれわれが服従する、高度の権威のことである」(ニーチェ「曙光・九・P.25」ちくま学芸文庫 一九九三年)
プルーストのいう「ショーウィンドー」の「写真展示」の例をもう少し詳しく思い出してみよう。或る展示から次の展示へ移るあいだ、大抵は夜間や休日だが、スタッフがショーウィンドーの中に入って展示を解体したり新しい部品と繋ぎ合わせたりして、切断、再接続、置き換え作業を行なっている場面に出会うことがある。またこの種の作業なしに次の展示がないことは誰もがよく知っている。だが多くの消費者は「写真展示」について語るばかりであって「切断、再接続、置き換え作業」についてわざわざ語ることはほとんどない。<ある>ことを知っているのに<ない>ことにして新しい「写真展示」について語ることにしている。だがスタッフはショーウィンドーを覗いていく人々が自分たちスタッフのことをまるで意識していないとしても気にならない。スタッフに対してその作業に値する「契約通り」の賃金が支払われていればその作業が話題にされようがされまいがまるで問題ではない。むしろ逆にじろじろ覗かれれば覗かれるほど、帰宅時に万一ストーカーに襲われるのではという危険を感じるのであり、問題にしている次元がそもそも違う。だが「ショーウィンドー」の「写真展示」を企画・デザインした側の人々にとって覗かれることはまったく無関係だとも思いきれない面がある。覗いていく人々に嘲笑されているとしたらどうしようとか、いや、嘲笑しているやつらは自分たちの企画・デザインの斬新さに驚いてわざと嘲笑したり無関心を装ったりしているだけだと考えたりもするだろう。もし下手をすれば次から仕事を貰えなくなるかもしれないと考えたり子供の養育費をとっさに計算し直したりもする。だから「ショーウィンドー」の「写真展示」というのは、ごく通例の消費者に限ってのみ「それだけを切り離し」て行われる作業に過ぎないのであり、或る写真展示と次の写真展示とのあいだには複雑怪奇な無数の事情が錯綜し合いせめぎ合っているといえる。
そしてまたプルーストは、背後から見たアルベルチーヌの黒髪姿が<私>に「ずぶ濡れの雌鳥(めんどり)」を想わせたと述べているが、試しに「ショーウィンドー」の「写真展示」が「ずぶ濡れの雌鳥(めんどり)」に変わっていたらどうだろうか。まったく新しいタイプの焼鳥屋に置き換わったのかと考えて仕事帰りに立ち寄っていく人々などもいるのではないだろうか。冷やかし半分だとしても少しはいるに違いない。逆に一人もいないというケースこそ考えにくい。それほどシニフィアン(意味するもの・ここでは「ずぶ濡れの雌鳥(めんどり)」)とシニフィエ(意味されるもの・ここでは「まったく新しいタイプの焼鳥屋」)とはいとも容易かつ短絡的に繋がり合ってしまうのである。そしてもし「ショーウィンドー」の「写真展示」が「ずぶ濡れの雌鳥(めんどり)」に置き換えられているのを見て店内に入った人間がそこに「新しいブティック」ではなく「新しいタイプの焼鳥屋」でもなく「ありがちなペット・ショップ」でもなく、「水からあがってきたときのように光ってい」る「黒々とした後ろ髪」をロゴとする新しい「ヘアー・サロン」だったとしたらどうだろう。おそらくクレームをつける人間は一人もいないと思われる。そんなふうに同一的アナロジー(類似・類推)というのは大きな繋がりを持っているかのように見えるけれども、同一的アナロジー(類似・類推)を保証する根拠となっているのは逆に同一的でない<差異>の側(ブティック、焼鳥屋、ペット・ショップ、ヘアー・サロン)の機能なのだ。
次の箇所でプルーストは二つの視覚について語る。(1)通例の強度しか備給されていない視覚の光景。(2)過剰な強度の備給を受けた場合の視覚が捉える光景。
(1)「社交の集いにせよ、まじめな会話にせよ、ただの友好的なおしゃべりにせよ、この娘たちとの外出にとって代わるものには、私は昼食の時間に招待されながらそれが食事ではなくアルバムを見るためだった場合と同じように落胆を覚えたにちがいない。いっしょにいて楽しいと思える紳士や青年でも、老齢や中年の婦人でも、こちらの平板で凡庸な視野の表面にあらわれるにすぎない。ただ視覚だけでその人たちを意識するからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.533」岩波文庫 二〇一二年)
(2)「ところが娘たちを捉える視覚は、他のもろもろの感覚の代表として派遣されたと言っても過言ではなく、匂いや触感や味など相手のさまざまな美点をつぎつぎと探りだし、手や唇の助けがなくてもそれを味わうのだ。これらもろもろの感覚は、欲望ならではの移し替えの技(わざ)と総合の才を発揮して、頬や胸元の色合いを見ただけで手による愛撫や舌による賞味など許されない接触をつくりだし、まるでバラ園にいて甘い蜜を集めたりブドウ畑にいて眼で房にしゃぶりついたりするときと同じ、蜜のようなとろみを娘たちに与えるのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.533~534」岩波文庫 二〇一二年)
とはいえ(2)の場合、視覚で捉えられる表層を越えて何か神秘主義的な内面とでもいうようなものが映し出されてくるわけではない。どれほど神秘的に映って見えたとしてもそれはなお、或る表層から別の表層への移動であり、どこまで行っても出現してくるのは新しい表層でしかない。目に映るということがすでに表層の出現でしかない以上、強度が備給されればされるほど次々出現する表層の系列は無限に引き延ばされていく。しかし(2)では(1)とは異なることが生じている。ニーチェから。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる。画家、彫刻家、叙事詩人はすぐれて幻想家である」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫 一九九四年)
ドゥルーズから。
「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第二章・P.264」河出文庫 二〇〇七年)
小説家が作品の中で、主人公の生涯を通して次々と生じる恋愛を反復させる場合、どれもがまるで同一だということはあり得ない。一度ずつの恋愛が描かれるわけだが、恋愛という言葉は同じでも「反復のなかに斬新な真実を示唆する」ものは他のどの恋愛とも違う<差異>の存在であって、それが<差異>として認められるからにほかならない。この<差異>が「斬新な真実」として機能する限りで始めて他のどの恋愛でもない唯一的な恋愛だと読者は納得することができる。
「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)
だが重要なのは、或る恋愛から新しい恋愛へ移動するあいだ、恋する側の人物において「人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべき」とするプルーストの言葉だ。<私>という言葉は同じでも以前の<私>と今の<私>とのあいだでは「変動」があった。ゆえに新しい恋愛は「人生の新たな地帯、べつの地点」へ移動した上で進行中の恋愛であって、その意味で以前の恋愛とは異なる恋愛にならざるを得ない。だから別に「奇をてらう」必要性などまるでないのである。
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「われわれの記憶は、ある人物の写真をショーウィンドーに展示するにあたり、あるときはこの写真、べつのときはこの写真ととり替える店のようなものである。ふつうは最新の写真だけがしばらく人目に触れているのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.529」岩波文庫 二〇一二年)
プルーストは「ショーウィンドー」の「写真展示」を隠喩として用いているかのように読める。けれどもプルーストの方法論として隠喩を用いることはほとんどないということを思い出そう。「われわれの記憶は」まさしく「ある人物の写真をショーウィンドーに展示するにあたり、あるときはこの写真、べつのときはこの写真ととり替える店」だと言って間違いない。にもかかわらず、もし、そんなことをした覚えなど生涯のうち一度もないと言う人がいるとしたら、その人は「嘘つき」だということになるだろう。しかし問題は、なぜ或る人物に関する記憶の系列を「ショーウィンドー」の「写真展示」と等値することができるか、でなくてはならない。プルーストはいう。
「それは過去の一瞬、というだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものかもしれない。むしろ過去にも現在にも共通し、この両者よりもはるかに本質的なものであろう。これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在のものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。ところが突然、ところが突然、自然のすばらしい便法のおかげで、この厳格な法則が無効とされ、停止され、自然がある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与されたのだ。そしてこの巧妙なからくりのおかげで、わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.442~443」岩波文庫 二〇一八年)
記憶というものは或る任意の場面のみを、「それだけを切り離し」、別の場所へ移動させることができるからである。切断可能、再接続可能、置き換え可能、ということが記憶の条件の中にすでに含まれている。ばらばらな諸断片の意識化にあたり、ニーチェが喝破したように、「風習・慣習」が命じる作用が瞬時に適応され偽造=変造を終えたそのすぐ後で始めて記憶は意識にのぼってくる。
「風習とはしかし行為と評価の《慣習的な》方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理もまったくない。そして生活が慣習によって規定されることが少なければ少ないだけ、それだけ一層倫理の範囲は小さくなる。自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを《望む》から、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、『悪い』ということは、『個人的』、『自由な』、『勝手な』、『慣れていない』、『予測がつかない』、『測りがたい』というほどのことを意味している。そのような状態の尺度でいつも測られるので、ある行為が、慣習が命令するからでは《なくて》、別な動機(たとえば個人的な利益のために)、それどころか、かつてその慣習を基礎づけていたまさにその動機自身からなされるときですら、その行為は非倫理的と呼ばれ、その行為をする者からさえそう感じられる。なぜなら、その行為は慣習に対する服従から行なわれたのではないからである。慣習とは何か?それは、われわれにとって《利益になるもの》を命令するからではなくて、《命令する》という理由のためにわれわれが服従する、高度の権威のことである」(ニーチェ「曙光・九・P.25」ちくま学芸文庫 一九九三年)
プルーストのいう「ショーウィンドー」の「写真展示」の例をもう少し詳しく思い出してみよう。或る展示から次の展示へ移るあいだ、大抵は夜間や休日だが、スタッフがショーウィンドーの中に入って展示を解体したり新しい部品と繋ぎ合わせたりして、切断、再接続、置き換え作業を行なっている場面に出会うことがある。またこの種の作業なしに次の展示がないことは誰もがよく知っている。だが多くの消費者は「写真展示」について語るばかりであって「切断、再接続、置き換え作業」についてわざわざ語ることはほとんどない。<ある>ことを知っているのに<ない>ことにして新しい「写真展示」について語ることにしている。だがスタッフはショーウィンドーを覗いていく人々が自分たちスタッフのことをまるで意識していないとしても気にならない。スタッフに対してその作業に値する「契約通り」の賃金が支払われていればその作業が話題にされようがされまいがまるで問題ではない。むしろ逆にじろじろ覗かれれば覗かれるほど、帰宅時に万一ストーカーに襲われるのではという危険を感じるのであり、問題にしている次元がそもそも違う。だが「ショーウィンドー」の「写真展示」を企画・デザインした側の人々にとって覗かれることはまったく無関係だとも思いきれない面がある。覗いていく人々に嘲笑されているとしたらどうしようとか、いや、嘲笑しているやつらは自分たちの企画・デザインの斬新さに驚いてわざと嘲笑したり無関心を装ったりしているだけだと考えたりもするだろう。もし下手をすれば次から仕事を貰えなくなるかもしれないと考えたり子供の養育費をとっさに計算し直したりもする。だから「ショーウィンドー」の「写真展示」というのは、ごく通例の消費者に限ってのみ「それだけを切り離し」て行われる作業に過ぎないのであり、或る写真展示と次の写真展示とのあいだには複雑怪奇な無数の事情が錯綜し合いせめぎ合っているといえる。
そしてまたプルーストは、背後から見たアルベルチーヌの黒髪姿が<私>に「ずぶ濡れの雌鳥(めんどり)」を想わせたと述べているが、試しに「ショーウィンドー」の「写真展示」が「ずぶ濡れの雌鳥(めんどり)」に変わっていたらどうだろうか。まったく新しいタイプの焼鳥屋に置き換わったのかと考えて仕事帰りに立ち寄っていく人々などもいるのではないだろうか。冷やかし半分だとしても少しはいるに違いない。逆に一人もいないというケースこそ考えにくい。それほどシニフィアン(意味するもの・ここでは「ずぶ濡れの雌鳥(めんどり)」)とシニフィエ(意味されるもの・ここでは「まったく新しいタイプの焼鳥屋」)とはいとも容易かつ短絡的に繋がり合ってしまうのである。そしてもし「ショーウィンドー」の「写真展示」が「ずぶ濡れの雌鳥(めんどり)」に置き換えられているのを見て店内に入った人間がそこに「新しいブティック」ではなく「新しいタイプの焼鳥屋」でもなく「ありがちなペット・ショップ」でもなく、「水からあがってきたときのように光ってい」る「黒々とした後ろ髪」をロゴとする新しい「ヘアー・サロン」だったとしたらどうだろう。おそらくクレームをつける人間は一人もいないと思われる。そんなふうに同一的アナロジー(類似・類推)というのは大きな繋がりを持っているかのように見えるけれども、同一的アナロジー(類似・類推)を保証する根拠となっているのは逆に同一的でない<差異>の側(ブティック、焼鳥屋、ペット・ショップ、ヘアー・サロン)の機能なのだ。
次の箇所でプルーストは二つの視覚について語る。(1)通例の強度しか備給されていない視覚の光景。(2)過剰な強度の備給を受けた場合の視覚が捉える光景。
(1)「社交の集いにせよ、まじめな会話にせよ、ただの友好的なおしゃべりにせよ、この娘たちとの外出にとって代わるものには、私は昼食の時間に招待されながらそれが食事ではなくアルバムを見るためだった場合と同じように落胆を覚えたにちがいない。いっしょにいて楽しいと思える紳士や青年でも、老齢や中年の婦人でも、こちらの平板で凡庸な視野の表面にあらわれるにすぎない。ただ視覚だけでその人たちを意識するからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.533」岩波文庫 二〇一二年)
(2)「ところが娘たちを捉える視覚は、他のもろもろの感覚の代表として派遣されたと言っても過言ではなく、匂いや触感や味など相手のさまざまな美点をつぎつぎと探りだし、手や唇の助けがなくてもそれを味わうのだ。これらもろもろの感覚は、欲望ならではの移し替えの技(わざ)と総合の才を発揮して、頬や胸元の色合いを見ただけで手による愛撫や舌による賞味など許されない接触をつくりだし、まるでバラ園にいて甘い蜜を集めたりブドウ畑にいて眼で房にしゃぶりついたりするときと同じ、蜜のようなとろみを娘たちに与えるのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.533~534」岩波文庫 二〇一二年)
とはいえ(2)の場合、視覚で捉えられる表層を越えて何か神秘主義的な内面とでもいうようなものが映し出されてくるわけではない。どれほど神秘的に映って見えたとしてもそれはなお、或る表層から別の表層への移動であり、どこまで行っても出現してくるのは新しい表層でしかない。目に映るということがすでに表層の出現でしかない以上、強度が備給されればされるほど次々出現する表層の系列は無限に引き延ばされていく。しかし(2)では(1)とは異なることが生じている。ニーチェから。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる。画家、彫刻家、叙事詩人はすぐれて幻想家である」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫 一九九四年)
ドゥルーズから。
「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第二章・P.264」河出文庫 二〇〇七年)
小説家が作品の中で、主人公の生涯を通して次々と生じる恋愛を反復させる場合、どれもがまるで同一だということはあり得ない。一度ずつの恋愛が描かれるわけだが、恋愛という言葉は同じでも「反復のなかに斬新な真実を示唆する」ものは他のどの恋愛とも違う<差異>の存在であって、それが<差異>として認められるからにほかならない。この<差異>が「斬新な真実」として機能する限りで始めて他のどの恋愛でもない唯一的な恋愛だと読者は納得することができる。
「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)
だが重要なのは、或る恋愛から新しい恋愛へ移動するあいだ、恋する側の人物において「人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべき」とするプルーストの言葉だ。<私>という言葉は同じでも以前の<私>と今の<私>とのあいだでは「変動」があった。ゆえに新しい恋愛は「人生の新たな地帯、べつの地点」へ移動した上で進行中の恋愛であって、その意味で以前の恋愛とは異なる恋愛にならざるを得ない。だから別に「奇をてらう」必要性などまるでないのである。
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